光と闇

京田辺シュタイナー学校で3日間の夏期講座。
今年は6年生・物理学。若林先生。
3日間、大人が6年生になって、物理学、オイリュトミー、芸術のクラスを受ける。
今年で3年目の参加。



同じ時期に、同じ場所にくると、自分の変化もよくわかる。
2014年、そして2015年は、
すがるような思いでここに来ていた。



あるものにすがりつく時期があってもいいと思う。
ずっとすがりつくわけではないのだから。
すがりついているときは、その対象を神だと思うだろうが、
その神が本物ならば、
いつの日か、神をわたし自身の中に持てるだろうと思う。



光を、
輝きを、
自分自身の中に見つけ、
湧き上がる泉を自分の中に見いだせたとき、
そこには快復と癒しがある。
そうなった時、神はわたしの中に戻ってきて、
わたしは、自分をもう一度信じることができるのだと思う。
神は、天使は、自分の中にいる。
だから。
見失ったときは、何かにすがればいい。



今回の6年生の講座では、「光と闇」が全体を貫くテーマとなっている。
物理学でも、オイリュトミーでも。
芸術の時間には、白黒線描。
私にとっても、まさに、ぴったりのテーマだった。




神と私の関係は、
光と闇の関係と似ている。


今日、物理学の「光と闇」の学習の最後に、先生がおっしゃった。
「光そのものは見えない。
 光は何かを照らし、初めてその姿を明らかにする。」



光は、闇の中にすでにある。


闇は光に満ちているという真実が、いったい何をわたしに比喩として語りかけるのか。
闇の中に、すでに光がある、ということを確かめるために、何を、差し出すのか。
どうしたら、そこに光があるのだ、と確かめられるのか。


ここに通った2年、シュタイナー教育を学んだ2年間は、
そのことを追い求め続けた2年間だったと思えばいいのだろうか。



わたしは、わたし自身を差し出していたのだろうか。
私自身の生を差し出し、そこに光があるということを確かめようとしていたのだろうか。



そんな問いが「降ってくる」。
オイリュトミーの詩にあった言葉。
問いは、天から降り注ぐのだと。



メインレッスンの物理学。
昨日は、音の。今日は光の。
いくつもの実験をした。



ああ、もしかすると、ここに通った2年間も、何か、私のために用意された、壮大な実験だったのだろうか。


わたしに起こったすべての出来事も。
出会ったすべての人々も。
神様から用意された、実験だったのかもしれない。



今、わたしは、光を見ることができる。


自分の中に。
たしかな光を。


今日、暗室の真っ暗闇の中でリレーされたろうそく明かりのような。
小さいけど、あたたかな光を、
私は、今、自分が灯していることをたしかめることができる。
そして、暗闇のあたたかさもまた、感じることができる。




白黒線描を書くとき、真理子先生は、「光と闇が出会ったら、なにがうまれるでしょう。」
「闇の中から、なにが見えてくるでしょう。」と問いかけながら指導してくださった。


シュタイナー教育の授業の中を脈々と流れるのは、人が生きることに対する比喩

壮大な音楽を聴くように、その比喩に包まれ、励まされ、泣きそうになりながら、学ぶ。
去年、一昨年の私は、実際に涙を流しながら授業を受けた。
今年の私は、ほんの少したくましくなった。



「闇をしっかり塗りこみ、闇を闇にすることで、光が際立ちます。」という言葉を聞きながら、
闇を塗り込む。





今日、真っ暗闇にいるときに、私が思い浮かべたのは、この曲のことだった。
闇と光を歌う人。
夜と朝を歌う人。

対極にあるものは、
互いを内包している。
そして、対極にあるものが出会った時に、
新しいかがやきがうまれる。



「暗闇手探りで歩く 温もりを訪ねゆく
 ひとりの限りを尽くして 我に返る時を求め


 必ず行き当たる悔いと
 その先へ続く夜
 絶えゆく命の灯燃やせ
 数多の星に見守られ」『命ノ灯燃ヤセ』(タテタカコ




人生の中の、ひとつの季節が、めぐろうとしている。
その兆しを感じる。
そして、その変化を、心おだやかに迎えようとしている自分自身がいることも。


扉を開くこととも、閉じることとも違う。
それは、ひっそりとした夜明けの時間。