沈黙の春


ついに3年間使ったiPhone5が、タッチしても反応しなくなった。not smart.

昨日出た声は、また今日フェードアウトする。
治すには喋らないこと、と言われているので、休日はちょうどいい。
声を出さない生活に慣れると、手の動きやしぐさが雄弁になる。
スーパーのレジで、そう思った。


教師という職業は声は大切だが、声に頼らない生活も、とても興味深かった。
私がささやき声しか出せないと、相手もそういう声になる。その共鳴がおもしろかった。
みんな、そうなる。
声のボリュームって、互いに調節しあっているんだな、と思う。


私の表情や仕草を見事に、即座に解読して、言いたそうなことを代わりに解釈、代弁してくれるこどもたちの姿とか、すごいな、と思った。
普段から、頼りない私に代わる副担任みたいな人がいっぱいいたが、今回も本当に頼もしかった。
言葉以外の表現手段でも伝えられることはたくさんあるし、
わかろう、感じようというセンスが磨かれる。
コミュニケーションは、協働的に生成されるもので、メッセージは文化の中で理解されるものだということも、
くっきりとわかってくる。
声が出せない経験とは、本当におもしろい。
私にとっては、年に1〜2度、与えられるチャンス。
表現力を磨く、言葉に頼らない、こどもを信頼する、任せる、周りに感謝する、口以外の器官の働きを強める、、そういうチャンス。



しかし、声が出ないというのは、どこか暗喩に満ちている。



口は災いのもとって言われてるかもしれないの。
かみさまに。


閉じた貝みたいに黙っておきなさい、と。
そして、よく見ておきなさい、と。
何か口だしたくなっても出さずに、じっと見ておきなさい、と。


声で人を動かしたりせず、そばにいって、手を当てなさい、と。
そばにいって手をとりなさい、と。


声でなんとなく答えたことにせず、目を合わせ、表情で会話しなさい、と。


沈黙。
その中にこそ響く音がある。


日々を省みる春の日。


昨日の卒業式で胸につけたコサージュ。
生花のコサージュは、本当に特別な気持ちになりました。