4年生。
遠足でエコポートやごみ処理場に行ったことを、個人個人で「新聞」という形でまとめる。
誰に伝えたい?
どんなことを伝えたい?
トップ記事をお魚図で構造化し、今日から原稿に書いていく。
こどもたちは、割付に興味深々。
切りはりするの、楽しみだね。
「書く」
楽しく書けるように。
色んな文体、文種を書くことを体験できるように。
わかりやすく書けるように。
書くことで自由になれるように。
と、いろいろ思いながら授業をつくるのだけれど。
楽しく書いていると、ついつい安心してしまいがちだけれど、
ちょっと待てよ、と言う自分もいる。
それ、何のために書いてるの?
系統性もなく、
なぜその文体で、文種で、なぜそれを書くのか、という意図なくして、
楽しんで書くから、という理由で書くという経験を用意することは、
結局、わたしの満足でしかないのだ、ということを、思い知るようになる。
こどもたちが、自由な書き手になること、そして、書くことを楽しめること。
書くことで考えを整理し、心を動かし、社会や人生を動かしていく。
そうなるための、ひとかけら、ひとかけらを、
こちらの安心や満足のための活動にしていないか。
楽しそうに書いているこどもたちのそばで、本当にこれでいいのだろうか、と問う。
この学習で彼らが経験する本質はなんだろう。
その本質は、人生に、どんなふうに関わるんだろう。
それをわたし自身の中で見出したい。
4年生で、このジャンルの「書く」を経験することの意味。
書けるかな・・・という心配をしていたけれど、意外にスムーズに書いている子たちの姿を見て、「書き方がわかりやすいのがよかった」と、同僚からコメントをもらう。
書く手順のわかりやすさ、というのは、ひとつ、大きなサポートになる。
新聞というメディアも、意欲をそそる。
1クラスに、担任プラス加配の二人体制で入ることは、「書く」単元では、とても有効だと感じる。
書く、こそ個別のやりとりが必要であるから。
わたしは、「話す・聞く」は苦手だし、「読む」もいい読み手でない。漢字も苦手で字も形がとれない。
唯一国語の中で強みだと思えるのは、「書く」くらいだ。
だから、「書く」ことにこだわる。
書くことは、書き終えるということは、
歩みを進めること、生きていくことと、
とても強く結びついたレッスンなのだと、
どこか確信めいて思っているわたしがいる。
休み時間のチャイムがなって、「えー、もっと書きたい」「先生、次も国語しよう」という声を、嬉しく聞きながら。
ひっそりと一段落を書き上げ、満足そうにしている表情を見ながら。
もしもこどもが、
何かを書き終えた時、ああ、もうこれで「書かなくていい」と、思ったとしても、
それでも、「書き終える」ことには、意味があるような気がする。