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2ヶ月ほったらかしていた日記。


数ヶ月前、この週末は、金沢に行こうかと考えていた。
Waltz of the rainに参加するために。
大好きな6月に、金沢の街で、Ann Sallyを聴けたらいいなあって思ったから。


でも、ひと月ほど前に、その予定を一度白紙に戻した。
今回は、色んなことが間に合わなかった。
それに、またいつか行く日がくる気がするから。


文章を書いたり、文章を書く人に立ち会ったりする日々。
書くためには、題材とか、書き方とか、環境とか、道具とか、色々あるわけだけれど、
わたしが書くために必要なのは、読んでほしい誰かだと思う。


最近、昼休みに国語ルームにやってくる少年。
やっと「書く」モードに入ったらしく、授業中になかなか進まなかった課題を持ってやってくる。
ひとつ書き上がると「書けた!」と叫ぶ。
作業しながら「よっしゃ!」と言う私に、
「せんせい、ほんまに、そう思ってる?」「背中向けたまま、”よっしゃ”って、ほんまに思ってる?」とつっこんでくる。


「ぼくは、書き出しを思いつくのに、すごい時間がかかる。」
「書き出しさえ思い浮かんだら、後は書ける。」らしい。
どうやったら書けるか、どういう時によく書けるか、何を考えたり使ったりしながら書いているか、
自分自身がどんな書き手であるのか、そういう話をするのは、とても楽しい。


私は、書き出すことが苦手な子には、例を示すようにしているんだけど、その子は、絶対にその例は使わない。
それ以外のものを思いつき、満足そうに、書き上げる。
そういうの、すごくいいなあと思う。


 


いい歌。
ああ、初夏。
好きすぎる季節。
好きすぎる川沿いの小道を、何度も通ってしまう。

途上


午前中は緑ちゃんと待ち合わせ。
お好み焼きを食べながら、今年度の研究の相談にのってもらう。
話しながら、お互いに新しいステージにいるんだなって思う。


午後からアトリエ劇研。
シンポジウム『劇場の33年と未来』。
そっか・・・1984年にオープンしたのね。
私も33歳なので、ほぼ同い歳。



アトリエ劇研で初めて舞台を観たのは2006年6月。
コンテンポラリーダンス作品だった。
教員になって京都に来たばかりだった。
あの日から、色んな作品を観たり、ワークショップに行ったりするようになった。


あれから十年以上が過ぎ、
この夏、劇研は閉館してしまう。
さびしい。
こんなにいい劇場が閉じてしまうなんて。


シンポの中で、劇場が作品やアーティスト、観る人を育ててきた、という話題が出た。
そこで、先日の送別会で異動される事務さんが語っておられた言葉が頭をよぎる。


「いい学校をつくろうと思って、仕事をしてきました。」


ああ、私は、何を思って毎日、仕事しているだろう。
生きているだろう。
素晴らしい仕事に触れる度に、
私自身のことを振り返り、心細い気持ちになる。


6月の私宛に、メッセージを書く。
あと2ヶ月、自分を励ましつつ。

小さく悔やむ

約3ヶ月ぶりに帰省する。
次に帰ってくるのはいつだろう。


最近、また宮沢さんの歌ばかり聴いている。


ある子が工藤直子さんの「はじめて」というすてきな詩を視写していた。
その詩を検索すると、なぜか「十六夜月に照らされて」が検索トップに上がってくる。
そこで、今夜は新月だけれど、聴いている。
宮沢さんの歌う風も星も月も道も、全部好き。
十代の頃から、ずっと聴いてる。
真夜中。実家の二階で夜風に吹かれながら、宮沢さんの歌を聴きつつ、手紙を書いたことを思い出す。
大切な人への手紙だった。
そして、その数年後には、その関係は立ち行かなくなった。
お別れのシーズン。
同僚と話しながら、
ああ、もう、この人とはこうしていっしょに食事をすることもないのかもしれない。
こんなふうに語らうこともないかもしれない、と思いつつ、
そういう一瞬、一瞬にうまく向き合えないわたしがいる。
これからも永遠に続くように、今日を終えてしまったことを、小さく悔やむ。
お別れがうまくできない。
十代のわたしの方が、ずっと誠実だった。

11歳の彼ら一人ひとりが、
今の自分、6年生の自分へ、というテーマでたくさんの詩集の中から、ひとつの詩を選ぶ。
詩は、作品袋に視写。
彼らが選んだ詩が、とってもすてきで、
一人ひとりのものを圧倒されながら、読む。
詩集に書かれた言葉より、
子どもたちの文字で書かれた言葉は、
どうして、こんなにも強く訴えかけてくるのだろう。
その後、ノートに書かれたその詩を選んだ理由を読み、またまたぐっときてしまう。
その選択には、今のその子らしさがにじみでている。
11歳の彼らの、
その愛や、その夢や、その葛藤や、そのやさしさ、その助走に、
泣きそうになる私がいる。




ああ、来年は、たくさん詩をつかった授業をしたいなあって。
十の歌、百の詩、千の言葉をもつことができたなら、
わたしたちは、暗闇続く日々にあっても、
自分自身を励ましながら、
生きていくことができるだろうか。
歌、詩、言葉たちが、
灯となってくれるだろうかと思う。



わたしの役目は、
歌を、
詩を、
言葉を、
そして語り合い、
文章を綴ることの力を信じることだと思う。
そう、信じるのは、子どもでもなく、わたし自身でもなく。



左上の親知らずさんが生えてきて、疼く。
噛み合わせにも違和感が出てくる感じ。
うずうず。
歯医者さんに行くと、様子を見ましょうって。
ああ、ごはんが噛みづらい。



息がつまりそうになったときは、
くだらない話で笑い転げたくなって、
通りすがりの少年たちに助けてもらう。
去年のクラスの子たちにも、ずいぶん助けてもらっていたことを思い出す。
ユーモアはやさしいね。

三鷹台のハクモクレン
2年前の春分の日に見かけた。
今週末も同じ場所を通る。
ハクモクレン、咲いてるかなあ。

「はる、いた?」 

昨夜、なんとなくそうしたくなって、
真夜中にがまくんとかえるくんシリーズをすべて読む。

声を出して笑ったり、
涙ぐんだりしながら。


もう、がまくんのダメっぷりが、愛らしすぎて、笑っちゃう。
私は、がまくんが大好き。
ネガディブ思考で、面倒くさがりで、すぐに不安になるがまくんが、好き。
ああ、わかる、わかるって思う。


春、夏、秋、冬、そのすべてがふたりの物語には登場するけれど、
中でも、昨日の私をとらえたのは、『そこの かどまで』という、ちょうど春を待つ、今の季節のおはなし。



かえるくんが、いつか、はるをみつけにいったお話。
「はる、いた?」って聞くがまくんが、とってもかわいい。


はるが来るのが、どんなにすばらしいか。
そして、はるを待ち遠しく思うことが、
どんなにこころおどることなのか。
ふたりの日々が教えてくれる。


「はるが また そこまで きているのを
 たしかめたくて ふたりは
 かえるくんの いえの かどを
 はしって まわったのでした。」


昨日も今日も、おだやかで美しい春の1日で、
それだけで、もう、十分、という気持ちにもなった。


稽古が今日はお休みになり、
ぐっすりと眠り、オーロラの夢を見た。
空全体がオレンジ色のカーテンのように揺れていた。



そう、まがりかどを、まがってみよう。 



月があんまりきれいだから。 

古時計

朝起きると、また時計が止まっていた。
ああ、電池の問題じゃないんだなぁって思う。
十年以上前に、久御山町の小さなアンティークショップで買った時計。
とても気に入っていたんだけど。
もう、だめかもしれない。


くじけそうになる日。
でも、その根っこに、何があるのか、
自分でもよく見えない。
ただ、途方もなく、悲しく、
持っているものを、全部手放したくなってくる。
つながりも、知識も、記憶も、
自分を守る一方で、傷つけてしまうものたちを。





音楽を聴いて泣いた、一番古い記憶は、「おじいさんの古時計」。

時計

髪を切った。
久々の、ショート。
髪の毛が短くなるだけで、自由を手にいれたように思える。
ほんの少しの間だけ、私は勇敢になれる。
右の耳にだけイヤリングをする。
短い髪に片方だけつけるイヤリングは、
自由の象徴なのだ。
私にとっては。




小さな軋みが、あっという間に身体を占拠し、
電車の外の景色すら見えなくしてしまう。


そういうものと戦わないために、
住む場所を変えたり、
情報を絞ったりする。


会うはずのなかった人と会い、
行くはずのなかったところへ行き、
知るはずもなかったことを知る。

しかし、それは、
会うはずで、行くはずで、知るはずだったこと。


振り返っても、そこには変わらぬ過去しかなく、
目をこらして前を見ても、
今は不安とかすかな希望しか見えない。



数ヶ月止まったままだった部屋の時計の電池を、やっと変える。
なんで、電池1つを変えるのに、こんなに時間がかかるのか。
自分で自分にためいきをつきたくなる。
でも、とにかく、動き出した。
私の部屋に、時間が戻ってきた。



上弦の月
お月様。
今日はあなたが遠かった。