fantasy


2月が終わる。


6年生の男子数人と、とてもくだらない会話を、毎日交わす。
とてもくだらないけど、
互いに笑顔になる。
そういうことが、大事。
毎日をつなぎとめているものは、
そういう、半分ファンタジーな会話。
授業をするために教室に行くと、
前の机の上にレリーフの板が積み木のように重ねられている。
「ああ、俺のアンコール・ワットが〜」というので、
とりあえずアンコール・ワットにお祈りして、「撤去しまーす」。
これは遊び。ごっこ遊び。
その文脈を共有し、そのシナリオに沿った言葉を言う。
無闇にぶつかったりしない。



5年生は、図書館でビブリオバトルの第一試合。
好きな本を、愛をこめて語る。
それだけでいい。
その子が見えることがいい。
紹介している途中で、本棚に走っていって、シリーズの本の紹介をする子もいる。
いい時間。




4年生は「初雪のふる日」(作 安房直子)。


小さい頃、好きだったお話を思い出す。
踊ることが好きだったので、踊りがモチーフになった作品には、好きなお話が多かった。
そして、赤い靴。
赤い靴、好きです。
ついつい、目がいく。
何足か、持っている。
赤。
ひそやかな喜びの色。



うさぎのくれたバレエシューズ (えほん・こどもとともに)

うさぎのくれたバレエシューズ (えほん・こどもとともに)



4年生の子たちが、ファンタジーの世界にどっぷりつかるのが、すごくかわいらしい。
現実と非現実を行き来することが、この年齢の子どもたちに、とても必要なことなんだろうと思う。


私は、もう、すごい子を目指すことなんて、これっぽっちもやめようと、色んな学校を見ながら思う。

その子の発達にあった、その子たちが、本当に自由にできることを、のびのびとできることが一番いいんだと思う。
もっと、もっと、と、教えれば、子どもたちはできるようになるかもしれないが、小さな大人、みたいなことができても、
全然幸せそうじゃないし、自由そうじゃない。大人は、こんなことができてすごいねって思うかもしれないけど、
無理してるなって感じる。


司会だって、小学生は、小グループの司会ができれば十分だって思うの。
大きいグループサイズは、俯瞰する目、視座が育たないと、難しい。
それぞれの身長にあったグループサイズがあるんだって思う。


3年生の時に担任した子が、ビブリオバトルで、「窓ぎわのトットちゃん」を紹介していた。
おばあちゃんの本なんだって。
小児麻痺の子にも、トットちゃんがやさしく接しているところ、
校長先生が、やさしくて、こどもに自分で考えさせるところがおすすめですって。
とってもこころあたたまるスピーチだった。



こんにちは、3月。
待ってたよ。

不時着

2月の終わりの日曜日。
やわらかい光。肌寒いけれど、確かに春を運んできている風。
窓をいっぱいに開けて、風を吸い込む。



浮かんでは消える記憶と、
新しい感情と。



稽古では、不安の話をする。
不安の話、いくらでもあるね。
でも、話せるのは、これくらい。



すすめられて観た映画は、
なかなかに斬新だった。
ううん。
でも、間違って後半の方観てしまったらしい。



コンペティションは、無事に終了する。
明け方見た、やさしい夢のおかげかもしれません。
日本のヴェネツィアに不時着した。
ゆりかごに乗ったまま、ね。


不時着、は、私の夢によく出てくるモチーフ。
飛ぶ夢、そして、水面に落ちるのだ。
紅の豚みたいに。
そして、漂う。
フィリピンでも、川を流れていく夢を見たし、
水に縁があるの。



そうして、となりでやさしくわらう。
夢の中で。

流れるような

やっと週末のコンペ用のプレゼンを作り終える。
研究の申請書をつくる中で、来年度のことも、色々見えてくる。
なんとなく、ひと山越えた気分。



自分の仕事は自分でつくるものなのだけれど、
ああ、そういうこともできるのかもしれないと、
急にできることが多くなって、うろたえる。


今日の授業で、生きることは夢を見ることだと、12歳の子たちは言っていたけれど、
こんな夢を見ることもできるのだと、
不意に現れてきた夢にたじろぐような。
私の夢は、いつも人と一緒にみるもので、
誰かに後押しされているものなのだと思う。


放課後は合唱の指導法の研修。
校内の先生の師匠の方がはるばる来てくださり、児童への授業と教職員対象の研修をしてくださる。
本当にすばらしい時間。
もっともっと歌いたくて、幸せな時間。
子どもたちは、授業が終わって教室に戻っても、ずっと歌っていた。
合唱の伴奏のピアノがまた美しく・・・
ピアノを弾きたいと思う。


5年生はビブリオバトルに向けて、練習。
何人かのスピーチを聞きながら、うるっときたり、感激したり。
3年生の頃、この子たちを担任した時のブックトークを思い出しつつ、
ああ、こんなふうに素敵な語りをするようになったんだなあって、じんわりする。



2月も、あと1週間。
毎日、同じ曲を聴きながら、自分を励ますように。


「まだまだだよ
 まだまだ行ける」(「敗者復活」タテタカコ


流れるようなピアノ。
5月の高速道路で聴いたこと、今でもはっきり覚えてる。
生きることは心細く、音楽なしでは難しいね。

立ち止まる

ぽっかり空いた日。
ひと月ぶりの休み。
今日がいい天気でよかった、と思いながら、
窓の外の青空を見る。
風は冷たいけれど、春の光。
どこへいくべきかもわからず、
立ち止まるような1日。



週末のコンペ用の資料を
延々と作る。
同じプレイリストを、これまた延々と流しながら。



先週は、なかなかに厳しい1週間だった。
学校の中に、様々な感情が渦巻く季節。
2月は昔から、ちょっと苦手な月です。
小学校5年生の2月に、担任の先生が「詩を書く」ということを教えてくれた。
その時は、2月がちょっと好きでした。
2月は、詩を書き始めた月ですね。




生きることをやめれば、と心ないことを言われても、その約束を果たすまでは死ねないという感じがある。
でも、その約束を、誰からことづかったのか、どうやって果たすのかは、わからないまま。
それでも、その約束が、私を生かしている。
天命というものか。

そういうことだって、あるよねって、
先日、話を聞きながら思いました。
生きるって、むずかしい。
わかりあうって、果てしない。



人生にはいくつもの曲がり角がある。
この曲がり角を曲がらずに済むなら、どんなにいいだろう、と思いながら、
毎日通った道もあった。
曲がってみないとわからない景色もあり、
それは、期待を超える喜びに満ちたものである場合も、
裏切られたような悲しみと絶望が待ち受けている場合もあった。
今日という日が、曲がり角であったのか、
それとも、でこぼこ道の、変わらぬ1日であったかは、
ずっと先になって振り向いてみないとわからないでしょう。



migraine

きれいなきれいな夕焼けを眺めながら、
久しぶりの頭痛がやってくることを予感する。


もちろん、的中。
あとは、朝を待つしかない。


最近、夢に、色んな人が登場する。
出会っては別れた、あるいは、現在毎日の中で出会っている人々が
毎晩毎晩登場する。
会いたい人は登場せず、
なぜ、この人?という人たちが、どんどんどんどん出てくる。
夢の中の「わたし」にも感情があり、
現在の私にとっては既に失われた感情も、
夢の中の「わたし」は感じていたりする。
夢というのは不思議です。


のばしのばしにしていたことをいくつか。
水道管を修理してもらい、
キッチンの電球を付け替える。
時計の電池は明日…。
滞っているものを流さないとね。


「右のこめかみあたりに、異物があるようです。
 おでこにひびが入ったような、ずきずきする痛みがあります。
 左半分は痛みはないんです。
 頭痛に伴って心臓も圧迫されるような感じがします。
 その圧迫が喉まで上がってきて、声を出したくありません。
 寝て、痛みを感じないようにしたいと思うのですが、
 痛みが気になって寝つけません。」


cocoon』(今日マチ子)を読む。
そうよね・・・人を救うのは想像力。

 
その言葉を、強く信じていた。十代の私は。

チャップリンも、そう言ってたから。

 

私も、想像力に救われてきてのだと思います。
 

そして、今日も夢を見る。



リチャード三世の冒頭の台詞を覚えながら、
声に出すことで、解釈はどんどん書き換えられ、豊かになっていくのだ、と改めて思う。
まさに「表現から理解へ」。
来年度は、子どもたちとも、音読を、もっと、もっと、たくさんしたい。


 

実感

前々からあることを知っているイベントは、行くかどうかずーーーっと考えて、迷った挙句、結局行かなかったりする。
一方、前日や当日にあることがわかったイベントは、運命的なナニカを感じたりなんかして、瞬発力のある決断につながることが多い気がする。


今日は、大阪府中学演劇祭で最優秀府知事賞と戯曲賞を受賞した作品が東山青少年活動センターで上演されることを昨夜知り、行くことにした。
10年程前、ワークショップを通じて知り合った方が顧問をつとめておられ、台本も書かれたのだという。


舞台は、中学生の人間関係の繊細な感覚が丁寧に描写されていて、みるみる引き込まれた。
いじめは、いじめ、というはっきりした定義の元に起こるのではなく、
一人ひとりの不安、孤独、嫉妬、焦燥、潔癖、憧れ…そういう目には見えない感情が重なり合い、擦れ合う中に歪みとして、現れてきてしまうものなのかもしれない、と感じさせられた。
誰が始めたのか、誰が悪いのか、誰が加害者で誰が被害者なのか、その正体ははっきりとは見えない。
劇中劇に幽霊が描かれていたが、まさに、そのような得体のしれないもの。
それを見ようとし、さらに向き合うには、全員が幽霊がいる、いじめがまさにここにある、ということを実感と行動でつかまえないといけない。
この劇を中学生が中学生に向けて上演し、感じたことを話し合う、というだけで、非常に意味のある時間が生まれるだろう。
日常のリアルを丁寧に描くことは、強いメッセージを与えうるのだということが実感される素晴らしい劇だった。
清水さん、ありがとうございました。



午後からは稽古。
映画 Looking for Richardを観る。
その後、リチャード三世の冒頭の台詞を読む。
声に出して読んでいて、ああ、こういう感じかな、というイメージがどんどんでくるのがおもしろい。
声に出したり、身体を作ったり、空間を作ったり、関係性を作ったりすると、文字がどんどん立体感をもってくる。
帰宅後、覚えるために何度か声出しした後、iPhoneに録音する。
録音したものを音声で聴くことで、記憶しやすくなる。私の場合。



長い長い2月が始まっている。
描くことのできない未来を前に、
私は少しでも誠実でありたい、と思う。
人にも、世界にも、自分にも。



今日の劇に出てきた言葉。
「いじめられたくないけど、いじめたくない。」



私なら、こういう。

傷つけられたくないけど、傷つけたくない。
傷つきたくないけど、傷つけたくない。



雨の街。
ある学校の前を通る。
そっと祈りながら、帰ってくる。


君は、十分、傷ついたんだろう。
自分を傷つけずに生きて行くには、どうすればいいんだろうね。
君を守ってくれるものが、どうかそばに、ありますように。

「その日わたしは愛について考えたから
 自分をやめようと 棄ててしまおうと思っても
 自分を嫌いにだけはならなかった 」

「その日わたしは
 その日わたしは

 なくても生きていけるものに
 生かされていた」湯川潮音『その日わたしは』

https://virginbabylonrecords.bandcamp.com/track/feat-2

見たこともない


見たこともないような、表情だと思ったの。
沈んでゆく上弦の月
毎日、毎日見ているのに、
でも、見たこともないような月だと思ったよ。



変化、というのは、欲している時には訪れない。
何かに夢中になっていると、気づけば変化が完了しようとしている。
変わっていく時の姿は、
自分では、見ることができないんだね。



先月末から、キッチンの水道管が詰まっているらしく、水の流れが悪い。
そうこうしている間に、キッチンの電球が切れてしまい、電気もつかない。
部屋に一つしかない時計も止まってしまい、電池は買ってあるものの、電池交換もできず。
ああ、いろんなものが、滞っているな、と思う。
肩凝りも激しい。
どこから、流れを取り戻していけるだろう。



それでも、気がかりだったことに一筋の光が差し込み、
もう、今日はそれで十分。
君のことを救えたら、と思っていたけれど、
救われていたのは私だったということが、
時々あるね。


関わりのあった子どもたちの、いろんな知らせが舞い込んでくる。
そのうち、会えますように。
それまで、君のこと、考えておきます。
気になっている子のことを夜眠る前に考えるだけで、
その子の助けになるんだよって、
教えてもらったことがあるから。