袖を通した瞬間に

駅前の小さなセレクトショップで、Lokapalaのベルギーリネンの黒いワンピースを手にいれる。
ここのオーナーさんはとても目が利く人。
「袖を通した瞬間に、わかるのよ」と、瞬時にその「人」と「服」の相性を感じとり、言葉にして伝えてくれる。
色を迷っている時も、決めるための一言をくれる。
服も、大切に作られ、長く使える、センスのいいものを扱っていて、信頼できる。


最近、リネン素材にとてもひかれる。
色は、黒。
ピアノレッスンのエイダが着ていたような凜とした黒にひかれる。
そして、その対照としての白にも。
こちらは、オフホワイトの白。
蛍光がかっていない、ぽってりとした白。
生成りでもいい。




この2週間は、授業で色々実験的なことをしたので書き留めておきたいと思いつつ、毎日に追われてしまい、流れていってしまう。
「ごんぎつね」は、サイド・ストーリーを演劇的手法を使いながら。テキストと想像を行ったりきたり。
「大造じいさんとガン」の映画予告編づくりは、一緒に組んでいる先生たちもノリノリで、いい感じ。
先日は、「アナと雪の女王」「ルドルフとイッパイアッテナ」の予告動画を見ながら、
予行動画の内容や工夫を分析。
これら2作品は、どちらも「AとB」というタイトルで、最初の授業で題名読みをした時、こどもから出てきたもの。
「AとBの関係は?」という話をした作品。
予告編づくりは、iMovieさまさま。
映像の文法、演劇の文法を、物語の文法と合わせて学びたい。
いろんな表現・メディアを横断しながら学ぶっておもしろい。
物語の楽しみ方は多様であっていい。
そう思います。
「ソレデドッカイリョクハツクンデスカ」
という質問は、自分で自分にするのはいいとして、
人からされる時、もはや化石化した質問に聞こえる。
むしろ、それに応えたくもならないというか、
その質問自体の問い直しをするべきであって。
この質問をしてしまった時点で、自分自身の時代の流れの中にある表現のヴァリエーションを感じ、読み解く力の欠如をさらしてしまっていないか、とさえ思う。


わかりあえない人とは言葉を尽くしてもわかりあえず、
わかりあえる人とは、まさに、「袖を通した瞬間に」わかりあえる、ということなのかしら。

わたしは、異質な他者と折り合いをつけるだけの言葉を発する気力を十分に持っておらず、
ただ、「ああ、この人。この発想。」というのを敏感に感じる力はあると思う。
もう少し、辛抱強く対話に向き合う力があればよかったのかな。
そう思いながら、歌を聴く。