秋の日

昨日からいっきに秋めいて、薄手の薄紫のニットを出してくる。
2年前の暮れにかったもの。
細身のデザインと色合いが気に入って。
繊細な洋服が好き。
色合い、素材、模様・・・
そういうトータルの存在感が、繊細なもの。





10月末。小教研外国語活動研究大会でのレポート発表。
プレゼン準備をぽつぽつとする。
今年1月の実践のレポートなので、昨年度の学級のこどもたちの写真を色々見返す。
34人ものこどもと毎日過ごしていたなんて、もう信じられない。
学級のない毎日が「ふつう」となってしまった今の私には。
急にさみしさが押し寄せてくる。
もう彼らとは随分前にお別れをした。
なんだろう。
なんだろう。
半年以上経って、やってくる、この感情は。



1月や2月の写真は、つい最近のはずなのに、なんだか、わたしの知らないわたしみたいだ。
それほどに遠い。
もう戻れない。
戻れないことに感謝するわたしと、
その頃はその頃で、満たされていたと思うわたしがいる。
過去って、そういうものだったっけ。




ここしばらく、わたしは泣いていない。



ネガティブなものにせよ、ポジティブなものにせよ、ある感情が確かにあった場所は、その感情が姿を消すとぽっかりと穴が空くというか、とても心細い感じになる。


痛みは痛みとして存在することで、生きていたということ。
そこにあったはずのものが
すでになくなった場所を、どうしていいかわからず、
とても心細い気分になるのは、秋のせいだけじゃない。



ちょっとずつならして、
ならして、
ならしていく。



毎年、10月になるとクリスマス・ソングを聞き出すのがわたしの常で。
三連休はずっと家で手嶌葵のアルバムを聴いていた。
15歳の頃、深くなる秋の休日、ひだまりの中で聴いたクリスマスソング。
そして、母と山に蔓を取りにいった。
秋には、その感情をなぞりたくなる。



かつて存在していたものは、
思い出すことはできる。