居場所



何もない休日。
一歩も外に出ずに、家の中にひきこもる。
わたし自身の心境をあらわしているかのような、confusedな部屋を、とにかくなんとかしようと。
本棚の整理から始める。



教育書は、学校に持っていくことにする。
家に置いていても、しょうがない。
書類や公演のパンフレット類もファイリングする。




来週には実家に帰って、夏服と冬服の衣替えもしよう。




田舎の町で育った私は、狭い世界に苦しんだ。
噂話がすぐに回り、固定的な見方で見られることが苦痛だった。
また、人のそうした話を聞くのも、私は好きじゃなかった。
狭い人間関係。狭い視野。
地元は大好きな場所で、そこに住む人も大好きだけれど、
複雑な感情もある。
教育の世界もまた、それに似たものがある。




どこかのコミュニティに所属すれば、そこで共有されている感情や関係性、話題、文化に触れることになる。
そして、それらに染まることは、ある意味楽しいことでもあるし、安心なことでもある。
けれども私は、あまりそういうことを感覚的に好まない。
染まる前に、すっと、そこから去ってしまう。
うまく理由は説明できないけれど、苦手なんだと思う。
かつて、何度か通った場所で、たくさんのことを学んだ場所にも、
そうした違和感がきっかけで、もう行かなくなった場所がある。
内輪ネタで盛り上がるスタッフ。
そのことが排除や疎外感を生んでしまうことに無自覚な場作りやファシリテーションに嫌気がさした。
学べることはたくさんあったとしても、
そこは、いたいと思う場所ではない。
もちろん、そういう文化が好きな人も、そういう場に来たいと思う人もたくさんいる。
そういうことも、よくわかった。



かつて馴染んだグループのメンバーの集まりにも、そうした理由で足が遠のく自分がいる。
個人的な付き合いはあるのだけれど、なんだろう。
私が安心・信頼できるのは、2人、あるいは3人という、単位なんだと思う。



それでも、ずっと関係の続いているグループもある。
それぞれが、そのグループに依存せず、内輪で盛り上がりすぎることなく、それぞれが自律的に広い世界を見ている。
そうしたグループとは、関係を大切にできる気がする。
何度会っても、私たちは、新鮮に初めて会うように、互いの変化を受け入れ合い、変化していることに肯定的である。
私たちは関わり合いながら、しかし孤独であり、必要以上に立ち入らない。



FBも、なかなかにストレスフルで、twitterは気楽。



違う世界に行こうと思う。
違う世界を見ようと思う。
わたしには、それが合っている。
出発を決めた20の私、27の私。
導かれるように、用意された道。