書くということ

毎日、読書感想文の指導に頭を悩ませている。
今日は4年生の授業で撃沈。
6年生も、うまくいっているとはいいがたい。
やっぱり、自分で一からつくるしかない。
これまでの加配の先生からの財産を引き継ぎつつ、
今年のこどもたちの途中までの作品を編み直しながら、ガイドをつくる。
モデルを提示する。
複数の。良質な。
解釈の、表現のシャワーを浴びることで、全体としての文章表現が高まるという実感がある。
そして、それらの表現を、わたしが心から愛しているということ。
それにつきるのだということ。
読書感想文をなぜ書くのか、どう書くのか、ということも、最期はわたし自身の言葉にしていく必要があるのだと思う。詩のようにすると、なんとか形になった。
そう、最後は、「詩」という表現がわたしを助けてくれる。


こどもたちの中から色んなカミングアウトが出てくるような読書感想文を、わたしはのぞんでいる。
自分が所属する集団において自分自身についての文章を書き綴り表現することにより、ネガティブな履歴を昇華させることは、生きて行くために必要なスキルだと思っている。
共通に扱った読み物が「ヒロシマのうた」(今西祐行)であるので、こどもたちからは、父の不在や近しい人の死、母の病気が語られる。そして、戦争とは、平和とはということについて、オバマさんのスピーチや原爆ドームに行った経験、ISについてのニュースなど、彼らを取り巻く戦争の匂いを感じながら、彼らの言葉で平和を、戦争を語ろうとする。私の仕事は、それを書く環境をつくり、彼らが表現しようとする、その言葉をつかまえることで自分を生きようとする試みを、見守る。うまくいっているとも思えないが、うまくいかなかったら、また、修正して、返す。その繰り返しだ。やってみてわかることばかり。
文章には、自問自答を入れてごらん、と言っている。
書くことは、自分で世界に、自分自身に問うことなのだ。
問いは自分でつくるしかない。
そして、その問いは、誰かに答えてもらうのではなく、
やはり自分で答えをみつけるしかない。
自問自答を入れると、文章がぐっと深くなる。
自問自答で書いてみることで、思考が深まる。
そういう気がする。


わたしにとって、読書感想文は、とてもとても大切な表現の場だった。
小学校1年生から高校2年生まで、毎年何らかの賞をもらうことになった。
読書感想文は、自己開示作文だと思っていた。
「これ、みんなに読まれてもいいのか?」と尋ねられるようなことでも、文章の中では書くことができた。
高校ではクラス一の落ちこぼれだったけれど、唯一感想文だけが、教員に認められる手段だった。
自己主張も十分にできない、存在がないことになりそうな私が、それでもそこで、思考をする人間としている、ということを伝えられる1年に1度の手段。
私が教えているこどもたちの中にも、そういう「わたし」がどこかにいるのだろうと思う。
そういうものを、とりこぼさないようにしたい、と思う。
書くことは、生きること。
生きていくための、自分を生きていくための信頼できる綱のようなもので、
それは一度手に入れたら、誰も、誰にも奪うことができない。