夏至

泳いでいるのか、流されているのか。
曲がると、そこは海。
天から声が聞こえる。
「船の後ろを泳いじゃだめ」
ああ、進路を変えなきゃ、と思うけれど、船が進路を変えて、
私は船の後ろにいる。
水の流れに飲まれてしまう。
どんどん、行ってはいけない方向に流されて、
端まで行くと巻き込まれて命はない。
そこに見つけた陸沿いを流れるロープ。
必死にしがみつき、
でも、意外とあっさりと陸に上がれる。
ああ、助かった。
レミゼの映画の中、ジャベールが自殺する川の景色ととても似ていて、
あのシーンがいかに印象に残っているかを感じながら目覚める。




この映画観たい。観るべき、だけど覚悟がない。
人ごとじゃない。
http://katsuragi-jiken.com 


高校生の頃だっただろうか。
あるエッセイを読んだ。
船の上で、ぼーっとしているわたし。
その視線の先にいた人が、船から身を投げる。
目撃してしまったその人は、自分にも罪があるのではないか、と、
その光景を拭い去れない。



私は、その光景を、自分自身でくっきりと再生してしまう。
あれ、私の話かな、これ。
私は、目撃したことがあるのだろうか。
そういう気持ちになる。
忘れられない話。
これから、そういうことが起こるのかもしれない。
それとも、暗喩的な何か、なのかもしれない。



日常の中に、何気なく生きる私自身も、
無意識に誰かの死に加担するかもしれない。
そういうことを、私が私に訴えるためだろうか。


忘れられない景色。
こんな文章から想像した景色であることに。



久々に、眠る前に小説を読む。
2日に分けて、読み終わる。
1996年発行。
私は中1。
たしかに、その頃の空気を感じる。
ファンタジックな崩壊と再生の物語は、6月によく似合う。





柔軟であるとか、しなやかであるとか、バランスがとれている、という言葉を、
私は昔から好んで使ってきたし、そういう人でありたいと(心も体も)思ってきた。
また、小さな頃から私自身がそういうふうに形容されることも多かった。
人間関係でも、バランサーとしてちょっと難しいグループに配置されること、また、そこにあえていくことも多い。


けれども。
そのことが自分の中で矛盾してくることが多々ある。
信じているものに、大切にしているものにこそ、人は裏切られるということ。
そういう矛盾。
刃は、誰かではなく、常に自分自身に向く。
しなやかである、というのは、そういうことだという気がする。
柔軟であることをよしとする私は、自分自身の凝り固まった部分を責める。
そのことに耐えられなくなる危うさや、自己否定。
けれども、こうなると、しなやかですらもうない気がする。
くずれかけるバランスを持ち直す、その微妙な感覚。
そこにある、一瞬のやわらかい許し。
それがしなやかさ、だろうか。


夏至の1日。
昼間がいちばん長いというその日の夜も、短く長く過ぎていく。