語彙


朝からブックトラック製作作業の最終工程を同僚と。
その後、大雨の中、駅近くのタイ料理やさんにいく。
カウンターだけのお店は、誰も他にお客さんがなく。
昨年の5月にオープンしたというそのお店に、わたしはひとりで何度も入っているわけだけれど、
お店の人とそんなに話すわけでもなく。
今日は私たちの他に誰もお客さんがいなかったこともあるのだけれど、
同僚はどんどんいろんなことを聞いて、話して、わたしは、そうして初めて知ることになることがたくさんある。
ここに何度も通っていた私は、何も知らない。
何も知ろうとしなかった。
そういうことを、ひたひたと感じ入る。


ああ、この感覚をよく知っていると思い出したのは、
大学生の時、友人と行った海外旅行。
彼女はとても人と関わることが上手で、
私は正反対で。
彼女は本当に素敵な人で、
彼女が素敵であればあるほど、
私は一緒にいることが辛くなった。
途中から一緒に旅行をすることがつらくなったことを日記にぐちゃぐちゃと記した。



時は過ぎ、でも今は、そんなに落ち込んだりしない。
私の代わりに話してくれてありがとう、と思う。
いいバランスなんだろう。
私が何も話さないので、
そちらの方が彼女に話す役割が生まれるのかもしれない。
私も、無口な友達といる時は、
私がおしゃべりになるように。



午後からは、卒業生が入部した吹奏楽部の初ステージへのお誘いを受け、
市の音楽の集いへ。


音楽が大好きだった彼女たちが楽器と共にある姿を見届ける。



もう一度学校へ行って、言語環境づくりと教材作成。
印刷室の職員用図書をパラパラとめくっていると、とある言語活動の語彙一覧が目に止まる。


ああ。
こんな言葉まで、語彙集に載っている。
この言葉を使わないといけない状況が彼らの人生にいつか訪れる、そのための準備と思うと、
喉の奥が苦しくなる。



この言葉が、この活動が、この読み物が、どんなふうに彼らの人生を勇気付け、励まし、彼らの発達の助けになるだろう。レッスンに、メタファになりうるだろう。
そんなことを考える。
それは、教科書にも、指導書にも、指導要領にものっていなくて、
私が、目の前のこどもたちの魂に触れながら、
私が受け取ってきた世界の美しさ・豊かさと紬合わせるしかない。


もしそれを語れるならば、教材研究は十分だと思う。
それを語れるような生き方をしたい。



水無月は、憂鬱で、落ち込みやすいシーズンだ。
だから、美しい。
次の10年をどんなふうに生きればいいか、22の私は描けないでいたし、
32の今の私も考え込んでいる。
目の前のことを一生懸命にではなく、夢中でやることと、
そうしながらも、この10年であきらめてしまったいくつかのことを、どうやってしまいこもうかと
途方に暮れる気持ちになる。
25歳。
踊りたい、ダンサーになりたいという気持ちをあきらめきれず、
オーディションを受けて、
うまくいかなかった夏の帰り道も、大雨だった。
ダンサーになるのではなく、ダンサーとコラボした授業を創ることに道を見出そうとしたこと。
それでも、何か、どこかに引っかかり続けるもの。
そういうものを解き明かせずにいる。


大切な友人が私の手のひらをみながら、「教師は天職だよ」と言ってくれて、少し泣きそうだった。


中間先生が先日、ブログにアップされていたユングの言葉。

「人は生きるための神話を必要とする」 

とてもとても響く今日という日。
最近、涙もろい。 
というより、心が動くものとの出会いが多い、というべきかしら。