どこか似ている

自分のてのひらにあるものばかりを手繰り寄せ、
転がし、ひっくりかえし、丁寧にしわをのばしながら、
わたしが、どういうものでできているかを確かめる。
何にこころが動き、どこからきて、どこにいこうとしているのか。



中学、高校生の頃、国語の時間は、国語便覧を読むための時間だった。
作家たちの写真を眺め、年表をじっくりとみながら、どんな人生を歩み、どの時期にどんなテーマに向きあい、作品をつくったかは、生きて行くことに揺れる十代のわたしの拠り所であった。


それは、今に至るまで続いている。


美術館や文学館に行き、作家の人生や作品をたどりながら、
どのようなこども時代を送り、どのように十代、二十代を生き、
そして私が今生きている三十代の前半を過ごしていたのか。
誰と出会い、どのように仕事をし、何に葛藤していたのか。
それらは、私を励まし、涙ぐませる。



今日、いわさきちひろ美術館を訪れ、
2013年の夏に三浦綾子記念文学館を訪れたときの感覚を思い出した。
彼女もまた、戦争を体験し、絶望を味わい、そのことが生き方や作風を決定づけている人なのだ。



若い頃の自画像や、手記を読み、ドキュメンタリーをみながら、
またどこからくるのかわからない涙があふれてくる。
三浦綾子のときは、嗚咽をもらしながら館内を回った。
そんなことはないのだけれど、それに近いものはある。



それがどこからくるものなのか、わからない。
ただ、わたしの中の魂が反応し、わたしの中を流れる水と溶け合い、叫びのように流れ出す。
そのあふれるような何かが、わたしの中に確かにある、ということだけをわかって、美術館をあとにする。
それが、一体、どこからきて、なにもので、わたしをどこに向かわせるのかは、いつも、全くもって、わからない。
ただ、わたしはそこにまた戻るだろう、と思う。



ちひろのアトリエには、アップライトピアノがおいてあって、それはまるで実家のピアノの姿とそっくりだった。
5人兄弟の末っ子の母が、ひとつ上の兄に買ってもらったというそのピアノを、わたしは、3つのときから弾いた。
若くして交通事故に遭い、わたしは出会うことのなかった叔父が母のために買ったというピアノを、わたしがひく。
叔父が生きていたら、母は実家を継ぐことはなく、わたしは生まれなかった。
そう思いながら、そのピアノを弾いていた。



高校生の頃、丸顔で童顔のちひろの写真に、どこか親近感を覚えたのだ。
私は、自分とどことなく似ている人に惹かれる傾向がある。
そうして重ねることは、よくも悪くも、このぼんやりとした不安な私の人生の
拠り所になる。


「そのやさしい絵本を見たこどもが、大きくなってもわすれずに心のどこかにとどめておいてくれて、何か人生のかなしいときや、絶望的になったときに、その絵本のやさしい世界をちょっとでも思いだして心をなごませてくれたらと思う。それが私のいろんな方々へのお礼であり、生きがいだと思っている。」

「この日記はかなしいとき苦しいときしかわたしはつけていない。しあわせなときは何にもかかなくてもすることが沢山あり生き生きしているからよいのだけれど、どうしようもなく絶望したり、不安におののいたりするときは、こうしてはきだす場所がなくてはいけないのだ。」

ちひろのことば。
祖母と二つ違いのちひろさん。




閉館間際のショップで人魚姫のポストカードと、本を一冊買う。
あるページに描かれたデッサンとちひろの言葉に心奪われてしまったから。
そのときの私に語りかけてくるもの、がある。



ああ、明日からは、5年生で「本」についての授業。
どんなふうに人と本は出会うだろう。
出会い方は、いろいろあるよ。
そんな話なら、たくさんできそうな気がするね。
どの本との間にも、物語がある。



昨日の授業で、桂さんがおっしゃっていた。
「きっかけ」が大切だって。
物語の素晴らしさを決めるのは、「きっかけ」だと。
がまくんとかえるくんのシリーズを読みながら。
すてきな、すてきなお話だった。






無理を言って、高校のときの同級生に泊めてもらう。雑誌づくりの仕事をしていて、入稿前で朝から深夜まで仕事。谷川俊太郎さんにインタビューした話を、眠る前に聞かせてくれる。たのしそうな友人の姿にうれしくなる。3日間、ありがとう。
小学校の頃からの踊り子仲間と表参道で飲み、荻窪でライブバーを切り盛りしている友人に、ハグだけしにいく。横浜で教師をしている友人にも会って、国語の研究授業の相談にのる。


筑波大学附属小学校では、著書を読んでいた先生たちの授業に触れられ、感銘を受けた。
何より素晴らしかったのは2日目の児童発表。こどもたちによる音楽劇とダンス。
最後のダンスは、明るい曲でのダンスだったのに、なぜか涙が出てきた。
隣の人も泣いていた。エネルギーというのは、派手さとか、整然としているとか、そんなことではなく、こどもたちが幸せそうだ、というところにある。
それは、見た授業でも感じた。
こどもたちが、大切にされ、幸せそうに学んでいる。
それは、見た目の授業スタイルなんかじゃぜんぜんない。
先生たちが、こどものことを丁寧に考え、学校全体で研究している、というその空気感が、幸せにつながっているような気がした。
どんな形の授業であってもいい。
丁寧に、真摯に、ああでもない、こうでもないと、こどもと向き合っている。
そこにいるとき、こどもたちは、いきいきとする。




そんなシンプルなこと。
いろんなことが、驚くほど、シンプルだった。
そのことの素敵さに、目の覚める思いがする。




6月12日。
エゴン・シーレの生誕記念日だという。


この曲を好んで聴きたいと思う日はないと思う。
でも、あってよかったと思う日が、人生の中に1日くらいはあるかもしれない。




マケドニアに行ったとき、本当に闇が深くて、孤独に耐えられない気持ちになった。
漆黒の闇。
飲み込んでいくような闇に似た旋律。