sweets

秋にある府小研・外国語活動部会のレポート発表用のレポートを書く。
書けないままにずるずるときてしまって。
なぜ書けないかを考えていると、
テーマが自分の中で明確になっていなかったからだ、ということに気づく。
「教材の工夫」という題名なのだけれど、
過去の発表者のレポートは、どちらかといえば教具の工夫であり、
私は、単元構想の話を書きたいと思っているので、混乱していたのだな、と。

で、ようやく、自分の中で教材と教具がごっちゃになっていた内容を整理していく。

野口先生の論考を引っ張り出してきて、「素材研究」「教材研究」「指導法研究」の3段階で今回の単元構想の成り行きを整理するとことで、やっと形になってほっとする。多分、こういうことを書くことを求められているのだと思う。okが出ればいいのだけれど・・・。見てもらおう。




ヒロシマの歴史的な瞬間に涙を流しつつ、
キング牧師のスピーチを思い出しながら、
感情的にレポートを書く。
そうならないと書けないし、没頭して書いているとそうなる。
そうなるまでの、まるで腐りきった時間は自分でも目を覆いたくなるようだけど、
それを経ての没頭があり、何かがカタチになって出来上がってくる。



論と呼ぶにはあまりにもフラジャイルでエモーショナルな文章を、わたしは読みたいと思う。
読んだ後、動けなくなるような。
ゆっくりと首に手をかけられるように。
そして、呼吸をしていたのだ、ということに、
はたりと気づいてしまうような文章。
その罪に打ちのめされるような文章。
一方で、そういう文章や生き方は、わたしの存在を脅かしもする。
高校生の頃、ある雑誌のインタビュー記事を読んだ。
ある少女へのインタビューだった。
とてもいい記事だった。
わたしには、こんな生き方はできないと。
うずくまってしまった。
しばらく、ずっと頭の片隅から消えなくて、しんどかった。
そういう文章は、読みたいけど、読みたくない。
でも、結果的に、出会ってしまうし、引き寄せてしまう。



学校に明日の授業の準備をしにいって、
2時間ほど、ワークシートをつくり、振り返りを読み。



家での重力とは全く違う。
家は、わたしの安心できる空間ではあるけれど、
同時に、そこにいなければならない理由はなく、
空虚感の漂うことすらある。
学校は、そういう意味では、そこにいる必然性が何かとあるので、
仕事がしやすい。




でも、あの授業の終わりかたとか、人との違いとかを思いながら、
この世の中に、絶対こうでないといけないなんてこと、何もないよねっていう思いが、
わたしのベースにはあるんだろうと思う。
授業でも。
だから、つめが甘くなるし、適当になる。
でも、強いbeliefは持てないし、
わたしにあるのは、やはり、没頭し、夢中になった時だけ出てくる感情的な表現で、
そういうのは、学校の中では、出てくることはないな、と思う。
こうでないといけないことなんて、何もない、というのは、
少々絶望的で、
そのことをちゃんと理解することは、
生きる意味を、うっすら、うっすらと、そいでゆく。


昨日の結婚式の式場で、ずっと「海の上のピアニスト」の音楽が響いていた。
高校2年生の夏、よく聞いていた。
モリコーネの映画音楽。
今となれば、甘ったるくて、長くは聞けない。



先日のアートワークで言われた。
甘いものを好む人は、自分に厳しい人、甘やかせない人だって。


わたしは、甘いものはあまり食べない。
甘ったるい音楽もあまり聞かない。
自分の中に、甘えがある。たっぷりと。
自分で自分を甘やかす。
そう、多分、だから、甘いもの、あまり好まないんだね。