かがやき

放課後、2年前に担任した児童の保護者の方と出会い、少し立ち話。
今年の国語の授業での様子を話す。
最後に、「先生、これ、お守りにしてるんです」と、その方が手帳から出して見せてくださったのは、
その時に出していた学級通信「うたがきこえる」の縮小コピーだった。
その子がつくった季節の詩と、その詩への評、その子の名前のアクロスティック詩が書かれたもの。
「いい詩だな〜って思うんです」と、その子がおけらになりきってつくった詩を愛おしそうに眺めるお母さん。
なんだか、とてもうれしかった。




昨年度は、色んな事情で出さないことに決めた。


今年は学級がない。



学級通信は、わたしにとって、どういうものだったのだろう。
彼らにとって、そして保護者にとって、どういうものだったのだろう。





一生懸命書いた時期も、学級づくりの核としていた時期もある。



面と向かって話すことが苦手なわたしには、とても大切な手段だった。






6年国語は星野道夫「森へ」。ノンフィクションを読み終わり、「森へ」のメッセージを伝えるリーフレットづくり。



わたしの最も好きな星野さんの言葉を書き、パステルでふちどり、掲示する。

「僕たちが毎日を生きている瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」『旅をする木』(星野道夫


スクリーンには、websiteの写真集を流しつつ。
色んな刺激があること、それが私に必要な創作環境。
それが必要のない子もいるかもしれない。
でも、私は私が落ち着くので、そういう学習環境を好む。
気が散るから、集中しにくいから掲示物はシンプルに、といわれるが、
学習に必要な刺激は必要な刺激だから、ある方がよい、と言ってもらい、とても納得した。
そう、私には、あふれるほどの刺激がいる。



5年生は、説明文の要旨をまとめる学習。
難しいだろうな、、、と思っていたら、とてもいい感じに書けるので、びっくりした。
私は要旨をまとめるのが苦手で苦手で、今でもいやなのに、この子たちすごい・・・とびっくり。


説明文の単元は、「説明文の探偵になろう」というフィクションで学んできた。
ある子は、学習計画表への振り返りを、「探偵日記」に見立てて、毎回のミッションの振り返りを書く。
そういう虚構性で学習が楽しくなる子はいる。



ある子は、ワークシートには記入しないが、ホワイトボード交流では書きたがる。
ホワイトボードがあることで、授業に参加しやすくなる。
書くことへの抵抗が学習嫌いをつくっている。
それを「わがまま」だという言葉で片付ける人もいるかもしれないが、私は、その子が参加するなら、そのやり方の許容範囲はこちらが広げたいと思う。
さて、「わがまま」ってなんだろう。
誰がつくったんだろう。


5年生の2クラスを行ったりきたりして、T2に入っていたのだけど、
私の顔を見ると、「古典は?」と聞く子がいる。そんなに君は、古典が気に入ったのね。
私は国語は好きだったが、古典、漢文は苦手で(あまり興味が持てなかった)、こういう小学生の古典への情熱にふれると、驚くしかない。

「あ、今日は古典じゃないねんけど、じゃあ、ちょっと読もうか」と、少しだけ音読。

説明文の授業にはほとんど興味を示さないある子も、「平家物語」だけは熱心に読む。
そうか、あなたに、平家物語は魅力的なのね。


何が、どの方法が、どの教材が、どの環境がその子にとっていい刺激になるか、試行錯誤。
でも、その子が今必要としているもの、発達のために必要なものが、
特別な輝きをもって感じられるのだと思う。



私の場合でも、そうだ。
全く興味のないものと、
とにかく夢中になるものと。



わたしにとって、今、必要な輝きを放っているもの。
それは、わたしにだけ、特別に輝いて見える。
そこからしか、わたしは学ぶことはできない。