強いカナリア

『強いカナリア』という言葉をふっと思い出す。


数年前。
ある人のこどもへの心痛む発言を度々聞くことがあった。
しかし、発言をするその人はこどもから信頼されている。
心の奥がきゅっと痛むのを、うまく処理できないでいた。



今、その人はどうしているだろうか。




私は、もう弱いカナリアではない。
きっと、昔からそうではなかった。



私には、「書く」ことができたし、「告発」もできた。
うまく話すことはできなかったが、
おかしいことはおかしいと、書くこともできたし、伝えることも、訴えることも、相談することもできた。



多くのはことは、私にとって「どうでもいいこと」だが、許せないこともある。
そういう時は、ちゃんと強いカナリアになることも、私はできる。





今日は、そういう日だった。
あの子のため、だろうか。
わからない。



私の心の奥底が、きゅっとなるから、
かもしれない。




私には、大きなことはできない。
何かを変えることはできない。
でも、自分の心の動きには敏感でいたいと思う。
自分の心や感情の揺れ動きに対して、正直で、誠実でいたいと思う。







前任の教頭先生より、いくつかの大切なお仕事をいただく。
自分のことを信頼し、大切にしてくださる方の期待に応えられるように、少しでも。


『強いカナリア』 2009年2月の日記。まるで今日という日のように。
http://d.hatena.ne.jp/Yuka-QP/20090223