真夜中

帰りながら、考える。
「学校」の「授業」の中で夢中になって書いた経験のこと。
思い出しても、思い出せない。
たいてい、文章は家で、ひとりで、夜(から朝にかけて)書くものだった。
今、国語の授業の中で、色んな文章をこどもたちに書くように求めるわけだけれども、
わたし自身にそういう記憶がほとんどない。
高校の古典の授業で、俳句をつくるという名目で震災記念館にふらふらみんなで散歩に行ったことは鮮明に覚えているけど、それ以外でクリエイティブ・ライティングをしたことなんて、あったっけ。
経験を絶対視するわけじゃないけど、自分の感情的な経験のないことを具体的に意味づけていくことは、
少し困難だ。
文章は、家(あるいは好きな場所)で、ひとりで書くもの・・・だったもの。


もう少し、思い出し続けたい。
ぴんときたら、もうちょっと授業の構想もできるはず・・・と思う。



友人から京都に行くから食事でも、と誘いを受けるが、断ってしまう。
また、元気になったら行こうね、ということで。
今はあまり人に会う元気も出かける元気もない。
行きたいところはあるはずだけれど、気力がない。
何もする気がおきないときは、それでもしたいと思えることだけをするといいよ、と去年教えてもらった。
だから、無理はしない。
家にいて、音楽を聴いて、読みたい本だけ読んで、散歩をして、珈琲を飲み、日記を書く。
シンプルに、それだけ。


突き動かされるような衝動や、
いてもたってもいられない欲望、
あるいは、そんなに激しくなくても、何かとてもわくわくすること。
そういう感情を持てる日は、ちゃんと来ることはわかっている。
いつかきっと。



実家に帰る道程は大雨。
雨の、初夏の、夜の高速道路。
この上なく幸福な風景。
音楽を聴きながら、真っ暗闇の中、車を走らせる。
私の好きな音楽は、雨を描いたものか、雨に似合うものが多いので、
この取り合わせにとても幸せな気持ちで、時折涙ぐみながら、たどり着く。



Ann Sallyのカヴァーする星影の小径。
「わたし」を散ってゆくアカシアの花に例えると。


昨日の日記の続きみたいだけれど、
自分を何かに例える、というのは、難しい。
今年のテーマは、どうやら、そういうことらしい。
自分で自分を演出する。
そして同時に、自分というレトリックを解体もできるということ。
表現することは、そうせずにはいられない部分、説明の困難な部分もあるが、
表現者は、それをある程度説明できるんだと思う。
私も、自分自身が発信するものは、ある程度そのレトリックを説明できる。
文体の影響や意図しているものまで。




昨年、夏のシュタイナー学校の教員向け講座で、まりこ先生が私をたとえ、呼んでくれた詩。
とてもうれしかった。
私自身も、2年間、こどもひとりひとりを物語にたとえるように、詩を贈った。



自分自身をどのように象徴するか。
どのようなストーリーを、命を与えるか。
そのために物語を学ぶのだとも思う。



2年前の、一番落ち込んでいた頃を思い出す。
ほら、あの日々も、今では愛おしいほど。
戻れるものなら戻りたい。
変わってないね。
http://d.hatena.ne.jp/Yuka-QP/20140706 



わたしは、わたしのために日記を書いている。
繰り返す日々の中で、自分を勇気づけられるのは、自分自身の過去でしかない。
ちゃんと生きてきた、ということの証。
そして、過去はどこか美しい。
わたしはきれいなものが好き。
きれいな色、きれいな服、きれいな花、きれいな音楽。
華やかだとか、何かと比べてとか、見た目がよい、ということではない。
私の感受性に寄り添ってくれる、という意味においての「きれい」。
頼りがいを表す言葉。
きれいなものは私を守る。
それなしでは、とても生きていけないと思う。


7年前の写真。
前に住んでいた家の玄関。
ルピナスさん。
高校生の頃だったかな・・・母が強く私にすすめた本。
ずっと大切に持っていて、
毎年教室においてあるけれど、
一度もこどもに読んだことがない。
私の中で、わたしのための本すぎるらしい。



ルピナスさんも、回復したの。