そこの角をマーガレットって、母はいつも笑う。


「それは とても晴れた日で 
 泣くことさえできなくて あまりにも
 大地は果てしなく
 全ては美しく
 白い服で遠くから
 行列に並べずに少し歌ってた」Cocco 『Raining』


中学3年生の頃、Coccoの歌に強く惹かれた。
春休み。従姉妹が中学卒業のお祝いに『クムイウタ』のアルバムを買ってくれて、それから今に至るまでの長い付き合い。

『Raining』を聴いていつも思い浮かべるのは、私の散歩道。



Rainingというタイトルだけれど、あふれるような日差しの中、立ち尽くすような歌は、その道によく合って、
Coccoも、きっと、そんな白く、乾いた、どこまでも続く道を思い浮かべて歌ったんじゃないだろうか、とずっと思っていた。
白い服、というのは、結婚式なのか、それともお葬式なのか、いまだにどっちだろうと思っている。
ごんぎつねが、兵十のおっかあの葬列をじっと眺めるが、
そのごんぎつねが見ている景色と、Coccoの見ている景色が、いつもだぶる。



どこまでも続く川べりの道を歩く白い葬列。
それを、土手の木の陰から眺めるきつね。
その同じ位置に、少女がいるように思える。


歌を聴くと、私はわたしの知っている景色、思い描く景色を重ねている。
長年聴いてきた歌には、くっきりとその光景があって、
その歌を聴く時には、その光景を再生している。
誰にも、見ることのできない。わたしの脳裏にだけ存在するもの。
中学・高校の頃はインターネットは全然身近ではなく、携帯電話も持っていなかったので、本当にCDとラジオだけで音楽を聴いていた。あとはテレビを録画したりとか。
今みたいにPVも見られなかったから、これだけ自分の知っている景色で映像をつくりあげてしまっているのかもしれない。
PVは、解釈・答えみたいになってしまうけど、音楽は、もっと色々に聴かれる自由もあっていい。



家の前の川沿い。タイムの花畑。薄紫色がかわいい。
いつだったか、親しかった人が「スカボロー・フェア」の歌詞に、「パセリ、セージ、ローズマリー、and タイム」という歌詞があるんだって、興奮気味に教えてくれた。わたしも素直に感心した。



あの山は、兵庫県だって思ってた。
低学年の頃。
世界は、自分が見えるものがすべてだと、説明したかったから。


白い道。
かつては、愛犬・カイくんと歩いた道。
今は、一人で歩く。







鱒留川。
祖母は、震災の時、ここまで逃げてきて、炎のあがる村を眺めたんだと、何度も話した。

庭のすももの木。
夏が楽しみね。


今日(5月4日)は寺山修司の命日でした。
1983年5月4日に亡くなった。
私が生まれる4ヶ月ほど前のこと。


中学の国語便覧に載っていた写真が叔父の顔に似ていて、不思議に気になった。
中3の時、寺山修司のドキュメンタリー番組で半生を知り、そこからかな。
熱心に読むようになった。


好きな短歌をひとつ。


「きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする」 寺山修司