流れる

朝からひと泣き。
高校演劇。「ブンナよ、木からおりてこい」。
一人の人の内に存在する多様な自己は、そのまま世界の多様性として受け入れられていくだろう。
そのことをひとつの作品を創ることを通して学べるなんて、演劇って、なんて素晴らしいんだろう。
小五・小六の2年間、わたしに新しいコミュニケーションの形を見せ、たくさんのことを教えてくれた少女は、その豊かさを演劇の舞台で惜しげもなく出し切っていた。あの頃から、彼女はまぶしかったが、今日も、とびきりまぶしく、そして舞台で生きていた。


演劇は、自分のこころを映す鏡だと思う。
醜さも優しさも崇高さも弱さもエゴも、すべて、わたしの内に存在しているという事実。
どれほどわたしが自分勝手な生き物で、自分を棚に挙げて人を責めたり攻撃したり自分を守ったりしているか、ということ。
そして、同じように、自分自身の内に確かに息づく気高さや慈悲深さを発見することもできる。
そういうことも、すべて自分には隠せないように露わになっていく。
いいお芝居を観ていると、そういう感覚になるのかしら、と思う。
東宇治高校のみなさん、素晴らしい舞台をありがとう。



午後は今年最後のアートワーク。
シュタイナー十二感覚論。
今日のテーマは、「聴覚」。
ファシリテーターのちおさん曰く、「聴覚は、物事、その人の内面、本質に入っていく感覚」らしい。
直感的にわかるようで、精緻にはつかみづらい。むむむ。



水彩画を二枚。画用紙に水をたっぷりと含ませて。
1枚目は、「水鏡」をつくって、音と呼応しながら絵の具と遊ぶ。
2枚目は、「自分の中を無にしていく」をテーマに。
難しかった。色んなことを考えすぎるし、線をすぐに意味付けしたがるわたしに気づく。
いつもの思考そのものだな、と思う。無の境地にはほど遠い。




水をたくさん含んでいるので、出来上がった絵は、そのままの形で残りはしない。
どんどん流れ、原型を留めない。
水も、風も、何もかも、ひとところには留まれないということね。
残された絵は、何も表現していないのかもしれない。




聴覚。
ちおさんは言う。
「聴覚の向こうにあるものを聴く」ことが大事です・・・って。
物質的な音ではない、何か。宇宙の音を聴くんだって。
「音楽を聴くことで、内面空間は自由になれる」って。


そうそう、それは、すごくわかるよ。


音楽を聴きながら色んなことを考えるけれど、歌を一曲聞き終わると、忘れていたりする。
また、新しいことを考える。
不思議。
喜びも、悲しみも、音楽一曲分ならいいね。






きれいな歌。