A Kitchen Dancer

人権学習。
今年は、資料「六千人の命のビザ」を使って、杉原千畝の生き方を学ぶことにした。
ちょうど、明日から映画も公開。
社会科の授業も、第二次世界大戦
子どもは、思っていた以上に杉原千畝のことを知っている。
映画の予告を見ている子もいたし、オランダにあるアンネ・フランクの家を訪れた子も。


ワシントンD.Cのホロコースト記念博物館を見学した話もしながら。
しっとりとした時間。


あなたが杉原の立場なら、ビザを発行するか。



葛藤を想像しながら、ああ、これは、ドラマでいつかやってみたい教材だ、と思う。
発表している間も、男の子が、「善悪の回廊」みたいなことを勝手に始めていた


そういえば、高校生の頃、「センポ・スギハーラ」の演劇を演劇鑑賞会て観た。
最後、電車が去っていくシーン、その叫びが、今でも心に残っている。

「それでも人生にイエスと言う。」
大切にしている言葉。


それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う



12月。
色んな葛藤が渦巻く。
校内では、個人的な、追いかける、という件でのミステイクが数件。
私はすぐに何でもメタフォリカルに捉えてしまう。
ああ、追いかけることを制御しろ、というメッセージだな、と思う。





卒業随筆では、テーマ決めの真っ最中。
自分の成長を象徴するエピソードを選ぶ。
なんとかエピソードを決定した子も、頭を悩ましている子も。
親御さんからの手紙、友達からのいいところみつけ、数種類の随筆作品をキーにしながら。







夜、アンダルーサを聴きながら、キッチンで即興で踊る。
踊ることと描くことは似ている、と、踊りながら思う。
全身が絵筆になったような。
感情的で、感覚的で、象徴的で。
その空間を、ひとつの世界として構成する。
全くロジカルではなく、ぐちゃぐちゃで複雑で、でも、ひとつの踊りとしては完成される。
そういう身体、そういう思考の持ち主なんだと思いながら踊る。


私は、学校で、教室に立つ私があまり好きではない。
黒板に字を書きながら、その姿勢がいつも心地悪いと思う。
子どもの前に立つ姿勢も美しくない。
自分の姿勢を客観的に分析することはダンスで鍛えられているので、ある程度できる。
そういう点から言っても、学校での自分の動きは、とても納得のいかないものばかりだ。
特に、ここ数年そういう思いが強い。



どうやったら、自分で納得のいく立ち方が、教室でもできるんだろう。
それは、授業のあり方とか、自分自身の考え方・ありようとも直結するんだと思う。
姿勢だけの問題でもないし、でも、姿勢に象徴される、何かだ。



身体は雄弁。
意識せずに語ってしまっている何か。
意識下に置きたい、というだけなのか。
とにかく身体反応に出る。
考えていること、感じていることが。
厄介だ。




学校で好ましいと思える時の身体。
それは、合唱・合奏の指揮をしている時の身体。
歌っている時の身体。
読んでいる時の身体。
ティーム・ティーチングの時の身体。
給食の配膳の身体。
掃除の身体。



もう、ここまで。
明日は、大切な大会。
そしてアートワーク。