見えない記録を眠らせて

神戸へ。
前にいつ訪れたか思い出せないくらいに久々だった。
大学、大学院の頃はしょっちゅう歩いていた街。


「書く」という行為の教師としての意味、学習者にとっての意味を探究する研究会。
感想は今日は書かないでおこうと思う。


シュタイナー学校の先生、アートワークの先生、そして尊敬するファシリテーター表現者)の岩橋さん・・・みなさん言っていたことが、最近強く響くようになった。それは、何かを体験してすぐ(その日に)振り返り(言語化)をしない、ということ。一晩自分の内で眠らせて、次の日に自分に残っているものを大切にしたらよいと。それを言葉にしてみるとよいと。岩橋さんは、体験してすぐに言葉になんかできるはずがない。してほしくない、とおっしゃっていたように記憶する。私にとっては、その発言は、衝撃的だった(いつも子どもにすぐ振り返りを要求しているから)。


確かに、深く感動した後、たくさん考えたり感じたりした後、すぐ言葉でつかまえてしまうことがあまりにもったいないという身体感覚が残る。眠りというのは素晴らしいリフレクションのためのパートナーなのだ。


それとつながる話だと思うけど・・・
シュタイナー学校の秋祭りに行ったとき、ビデオやカメラ撮影はお断りだった。
「今、その瞬間起こっていることを、自分の目で見て、耳で聞いて、感じることを大切にしてほしい」という趣旨が添えてあった。
不思議に、その日の和太鼓の演奏、力強さや雰囲気、周りの景色を鮮明に思い出すことができる。
そういうものなのだと思う。
記録のためのメディアツールに、自分が感じることを奪われてはいないか。
自分が感じること、記憶することを任せてしまってはいないか。
忘れてしまってもいい、必要なことは自分の体がちゃんと覚えておいてくれる、という自分への信頼を失ってしまってはいないか、そんなふうに思う。
写真もわりと撮るけど、あまり見返さないし、撮ったことに満足している部分が大きい。
あえてやめてみると、「今、ここ」に集中できるし、私の体が、これまで生きてきた経験が、ちゃんと覚えておいてくれる。


そう、生きることは、常に記録的行為で、わたしたちは絶えず、何かを、誰かを、記録し、また、記録されているのだと思う。そして記録は、受動的でも能動的でもある営みで、何を受けとり記録するかはその人によって異なる。



私という存在も今日、何かを記録し、何かを記録しなかった。
また、誰かに記録された。



隣に座っていたおさきちゃんと、あおらさんが持ってきていた昭和の漫画がたくさん紹介された本を見ながら、「どれが昭和っぽい題名か」ということについて笑いながらしゃべったことを私は記録している。そして、運動場を見て風に吹かれながら窓辺で話した時の表情も。



カメラを持つと、「とらなければ」というように思ってしまう。
でも、そんなことはないなって、すごく感じる今日この頃。
覚えておかなきゃとも思わない。
自分が深く心を動かした体験は、決して誰も、私から奪うことはできない。
何年も前のことであっても、鮮明に、私の中で繰り返し再生することができる。
記憶をなぞり、幸せな気持ちになることもできる。


自分の体や感覚が錆び付かないようにしたい。
物を持ったりツールを得たりすることで「〜しなければならない」という脅迫観念に支配されないようにしたい。
誰かや何かに頼るのではなく、自分で豊かに受信し、自分を満たせるようになりたい。
森の中の湧き上がる泉のような心を持っていたい。
いつまでも。
そのために、私は必要なものを選ぶだろう。




もう少しここにいさせてください、という言葉は、映画のワンシーンのように。
常に自分の映像を撮影している自分がいる。
子どもの頃からずっと。
小学校からの帰り道、ずっと考えていたことがある。
きっと、人は死んだら、自分の人生が撮影された映像を観るのだろうな、と。
そして、私の無実も、そこで証明されるだろう、と。
きっと、誰かが、撮っておいてくれるのだろうと思っていた。
そんなことを夢見ながら帰っていた。


高校生になって、映画「ワンダフルライフ」のことを知ったときは驚いた。
同じようなことを考えるんだなって、みんな。



みんな、誰かの記録者。