めたもるふぉーぜ

雨の日曜日。
今日は出かけないといけないし、歩かないといけないのに、折りたたみ傘が見当たらない。
雑貨屋さんに立ち寄る。
傘を買ってもすぐにどこかに置き忘れてなくすので、
なくさないように、赤い傘を買った。
いい色。存在感ばっちり。

午後からは「癒しの森」でHirokoさんのポエトリー・リーディングのリサイタル。
茨木のり子「おんなのことば」。

古民家の木のぬくもりと暗めの明かり、窓から聴こえる雨音。
ピアノの音と朗読。
とてもよかった。
2014年6月に、世田谷文学館茨木のり子展を観に行ったことを思い出しながら、
茨木のり子という人を想いながら、聴いた。
詩集で読むのとは全然違う。
声で聞く、音で聞く、人から聞くと、
そこに、景色が、風景が、感情が浮かんでくる。

私も、ポエトリー・リーディングをしたいと思った。
あるいは、その傍で踊りたいと思った。

「強い人、じゃなくて、強くいようとしたというか・・・責任を負っていたよね・・・」「自分の限界を知って、それと戦っていたのかな・・・」

Hirokoさんが茨木のり子という人のどこに魅力を感じるかも少し聞くことができ、ああ、じゃあ、私にとっては、だれなんだろう、と思った。


道中は、YEN TOWN BANDのMy way.

スワロウテイルのアルバムの中では、一番好きだった。
17の夏、高校野球の応援演奏に行くバスの中で聴いた。
窓から通り過ぎる景色を見ながら、何度も、何度も。

まだ、世界は遠く広すぎて、私は狭く窮屈だった。
あの夏、私はたくさんの音楽を聴いたけど、
どうやって手に入れていたんだろう。
パソコンもなく、ケータイも持たない、田舎の町で、
どんなふうに音楽と出会っていたんだっけ。
雑誌とラジオ、レンタルショップ、友達、それしか思い出せない。
CD、MD、レコード、カセットテープ。
全部必要だった。


この週末はたくさんクリエイティブワークに関わって、もう、オーバー気味。
頭の中を、アイデアはいくつもいくつも生まれては消え、
眠って、すっかり忘れて、忘れられなかったものに、いつかまた出くわすのだろう。



ダンスの振り付けを考え、こどもに詩をつくり、フランス人漫画家とTシャツデザインの相談をして、髪を切って、洗濯をして、シュタイナー治療教育の本を読む。



Hirokoさんは、1日、1本の刺繍糸で刺繍をするのだそう。
私は、1日に1冊の詩集から詩を選び、朗読して眠ろう。


私はずっと学習者だと思う。
どうやって、自分が学んでいるかに、とても貪欲で、とても関心がある。
なぜ学ぶのか、どう学ぶのか、学んでいる私は何者で、どのように変容しているのか。自分を変容させるものはどういった学習であるのか。
学習者のidentity、agencyの問題への果てしない関心。
それも17の夏、自分の学習者としての姿勢を省みた経験から始まっている。
それまで、私はずっとある教師の授業に批判的だった。
だから、学ばなかった。
でも、おもしろさは、自分の学習態度や意欲、あり方、関わり方次第で変わるのだと思うようになり、学習者としての姿勢を変えた。もちろん、授業は学びあるものになった。

権力に従順であることは、隠れたカリキュラムにより巧妙に強いられたことかもしれない。
しかし、自分がどんなふうに学ぶか、ということは、誰のせいでもなく、自分の手の内にあるはずなのだ。
私の人生は、私のもので、誰も、どうにかしてくれはしない。
誰も救えないし、誰も幸せにできない。
そういうことと向き合っていくことは、学習者としての自分を生きることと、多様に重なると思う。


自分の言葉を見つけ、自分の歌を見つけ、自分を生きてゆく。
それが、学習者としての振る舞い、姿勢をかたちづくっていく。
誰のせいにもしないこと。
人は自分を映す鏡。


「発達は、メタモルフォーゼ!なのです」
フォルメンの先生の言葉。


そうだ、そうだ。
階段じゃないんだよ。
積み上げじゃないんだよ。
変容なんだ。
全く違うものに、変わるんだ。