振る舞い、あるいは存在の仕方のコレオグラフ

夏季休業最終日。

いきなりトップギアで走らないといけない感じの1日。
自分のやらないといけないことが、直線距離ですぱーんと、あらわれる。
というより、それ以外見えない。
教えてくれて、ありがとう。
迷いなく進まないといけない。


18時から20時までの2時間。
教室にこもって音楽をかけながら、
環境を整え、黒板にメッセージ。
「葉月」と、白いチョークで文字を何度もなぞる。
現実、日常が戻ってきた。
それは、意外なほどの心地よさと安心感。
十分休んだということなのだろうと思う。
仕事ができるということ、
責任があるということ、
必要とされているということ、
それは、突き動かされる情熱とは違うけれども、
滑るように私の身体をその波に調和させる。


私は、随分呼吸の仕方がうまくなったのだ。
時々、のどをふさがれるような感覚を覚えながらも、
私は、するりと、そこから抜け出て、息を継ぐことができる。
熱くて息苦しいと感じたら、ふいっとそこを立ち去り、
手足をどこまでも伸ばしながら踊ることだってできるのだ。
そうした、場での立ち居振る舞いの振り付けを、
私は私に施すことができる。
あり方、生き方、振る舞い方のアナロジーとしてのコレオグラフ。
この夏の学習を貫くワードが、舞い降りる。




何人もの友人が、先日の会の感想やらブログの感想やらを届けてくれる。
ありがとう。
まだうまく返信ができていないものもある。
もう少し待ってください。


ある友人は、「開放性」という言葉を使って私をあらわしてくれた。
彼女に返信しながら、
話すことにずっと苦手意識のある自分が、
英語を話せるようになって、日本語で話すことにも自信が持てるようになったことを思い出した。
苦手なことは、やらなくていい。
得意なことや好きなことをやっているうちに、
苦手は苦手じゃなくなるか、
苦手でも、大したことじゃないって思えるから。
そう思えたら、もう、それでいいんだから。



疾走感のある音楽がいる。
走る胸のため。

それでも、もちろん、明日は、ゆっくりと始める。
夏休みの出来事を、いろんな形で話すだろう。
わたしたちのやり方で、少し手を重ね、笑いながら。
あなたにまた会えたことがうれしい。
それだけは、明日、伝えたい。