その雨にも気付けずに

夢を見た。

雨の中、昨年受け持った3年生の子どもたちが授業を受けている。
私は、なぜか一人庇の下にいる。
子どもたちは運動場で、着席状態でずぶぬれ。
でも、私は、それをなんとも思わず15〜20分授業をして、終える。


授業が終わる。
風邪ひかないように、タオルで体を拭いて、帰る支度をするように、と、伝える。
そこではたと気づく。
彼らは、そもそもタオルなんて持っていない。
坂道の商店街に走り、タオルケットやタオルを3枚ばかり買って、走って帰る。
そもそも、そんな枚数では足りるはずもないのに。


帰ると、子どもたちは、なんとか乾いた体で、もう帰りの支度を終え、学校から出るところだった。
タオルは間に合わなかった。


どうして、雨の中、ずぶぬれで授業を受けさせたりなんかしたんだろう。
どうして、途中でやめなかったんだろう。
どうして、自分だけ、ずっと庇の中にいたんだろう。




私の夢は、何かの象徴のようであったり、予感のようであったりする。
大抵とてもリアルで声も表情もわりとはっきりしている。
夢とは思えない。


現実でも、私は、庇の中にいるんだろう。
ずぶぬれになっていることに、後からしか気付けない。
気づいているのに、気づいていない。
そんなことが、たくさんあるってことなんだろう。



自分の心が鈍感であったり、
文化に過剰に適応してしまっていたり、
不安であったり、
人のことばっかり考えたり。
そのどれもが、庇をつくってしまう。





ちょうど1カ月後に提出の、この夏一番の宿題に手がつけられずにいる。


彼女に、何を、どこから話せばいいのだろう。
あの頃のようなまっすぐさも、
寛容さも、
希望も、
信じる気持ちも、
いつ失ったのか、
見当たらない。
それなのに、幸せなあなたに贈る言葉を、
どこから、どんなふうに探してくればいいんだろう。


この身体の重みが、
あなたに届く言葉を与えてくれるのであれば、
そうであればいいのだけれど。




「こころのたねとして」(ココルーム文庫)を読んで、目にとまった文章。
ああ、いつの日か、私もこんなうたが歌えるといい。


「序詞
生きる という言葉をつかわずに生き
愛する という言葉をつかわずに愛し
 そして
そこに姿を映されるために、世界が
存在しているような
そんな、歌う宝石のかけら と
なること」

(『吹雪の星の子どもたち』山口泉 著 径書房 1984



夜は久々に映画館で映画。
家族の危うさと、
存在の心許なさと。
自分の存在を保つためには、
否定している存在を受け入れないといけなくて。
かくも生きることは重く。



"I don't belong here
I don't belong here"