感情について考えるに十分な演出

連休。
実家に帰り、書評を書くために、ある本を読む。
感情について考える。
考え続ける。
子どもの、そして、わたしの。


もっとも、答えの出ないまま、ずっと考え続けていることだ。


「寂しい時は寂しい顔を,悲しい時は悲しい顔をしたかった。」

時おり思い出す言葉。
中学の時、国語の教科書に載っていた作品の一文。

感情をどう表せばいいのか、そもそも、自分は何を感じているのか。
思うところの多い思春期の私には、心打たれる作品だった。
宇野亜喜良による挿絵が美しく、その作品の神秘性と儚さによく合っていたことも印象に残った。

えっと、何年生の時の、何ていう作品だったっけ。

実家の物置を探すと、中三の時の教科書に、その作品を見つけた。そうそう、「素顔同盟」(すやまたけし)だ。

17年ぶりに読み直す。
わたしは、これを読んだ頃から感情をうまく扱えるようになっただろうか。



実家からの帰り道。
ipodとつないだカーステレオ。
シャッフルで聴いていると、タテタカコの「敗者復活」が流れてきた。
2008年、京都・UrBANGUILDでのライブで買ったアルバム。
金髪の坊主頭でピアノを弾き、歌う彼女がかっこよすぎて、数日後、私も頭を丸めたんだった。
モンゴル帰りで、不思議な自信と前向きさがあり、あまり失うものもなかった。



タテタカコの歌。
感情について考えるには、なんて完璧な歌だろう。

「ぼくにはぼくがない
 ぼくだけが抜け落ち
 ぼくにはぼくがない
 まだ見えてない」『敗者復活』


帰ってからも、彼女の歌をずっと聴く。

「宝石」。タテタカコを知った曲。アメリカ留学中、是枝監督の「誰も知らない」を観た。痛烈な出会い。

「秘密の物語」、「身ひとつ」、
そして、「雨は五月に降る時を待つ」。

ほんと、いいうたうたいだ。


原稿におさまらない雑感。
あふれる量を書いて、削って、削って、削っていく。
書きたいことは、わからない。
書くべきことも、わからない。
感情は、事前にはない。
書くという行為の中に、その中に、見つけられていく。
あるいは、書くことを止め、夜道を風に吹かれて歩いたその時に。


・・・

ワークショップ型の授業が増え、意見を交流する機会は増えた。
人間関係をつくるため、そしていじめを防ぐための取り組みが増えもした。

でも、ぼくたちは、喉の奥につっかえた「その感情」を、表に出すことができただろうか。
誰かの、やり場のない悲しみを、そっと受け取る場をつくってきただろうか。

自分の感情を、本当に大切にする。それは、大人である者にとってこそ、難しいのだ。
傷つけないよう、傷つかないように包み込まれた感情は、喉の奥に、得体の知れない闇のように広がり、呼吸を難しくする。

そして、その名づけられることも、姿をあらわすこともなかった感情は、こころを巣食い、いつしか、持ち主であったはずのぼくらにとっても、どんな感情であったかさえわからないものになってしまう。

こころは、こうして、感じないこころになっていく。

・・・

実家から持って帰る予定だったレモングラスの鉢を庭に置き去りにしてきてしまった。
悲しいけれど、またしばらく帰れない。
レモングラスティーを飲みたかったよ、わたしは。

この感情に名前をつけるなら、
そうね、「ためいきレモングラス」。

それでも、仮面はいらないだろう。
仮面がいらないかわりに、
言葉と歌が必要です。
それでも生きていくために。