問われないで こたえる ひだまり

年度末。
Q-Uとソーシャル・スキルアンケート。

アンケートに、・・・うれしいときに、笑顔やガッツポーズをしていますか・・・という項目があって。

あるひなたぼっこのようなあたたかさを持つ少女は、問いの文の「笑顔」という言葉に○をし、ガッツポーズに×をして、「4 いつもしている」をつけていた。

わあ。好きだ。問題を自分用に書き換えてしまえる、かろやかさ。
私は問われない。私は問うのだ。

問うという行為は、権力行為。
それを、笑って、自分用に書き換える、彼女の花のようなかろやかさに、
私の心も広がった。
問われない、私は。
答えるということさえも、私が咲くための方法よって、言ってるみたいなんだもの。

ひかえめなで、やさしい子。
そうそう、あなたは、いつも、にこにこって笑っているもんね。
ガッツポーズは、ふっと吹いて、飛んで行け。



昨夜の夢は、低空飛行。
でも、飛んでいた。
飛ぶ夢を、宙に浮く夢を、時々見る。
ああ、私、すごく長い滞空時間で。
空を飛ぶって、どんな感じか、知っているんだ。
前世は、鳥だったのかもしれないな。
ふわっとくっきり、いい夢だった。




書くための、空間が大事だってことを、心から感じる。
その空間に身を置かないと、書けない。
学級通信は、学校でないと、書けない。
学校に残って、一日の終りに、その子のことを、その空間で思い出して書くのと、
お家で、ぼーっとしながら書くのとでは、
出て来るものがまるで違う。
いや、家では文章が出てこない。
お家では、その子に向き合えない。
その空間が書かせるものがある。
だから、ライティングを自分の好む場所で、というのは、本当に理に適っているというか、
本来、そういうものだ、ということを、しみじみ実感してしまう。
自分のことを思い返せば、書き物にふさわしい空間をキープすることは、書くことの重要な一部分で、もう、そこから書くことは始まっていて。



自分がどこにいるかわからない時、いつでも羅針盤を探す。
それは、歌であり、物語であったり、占いであったり、天気であったり、歴史であったり、他者であったり、自分の過去であったり、する。
けれども、答え合わせのようになぞりはしても、
過ぎ去ってしまえば、意味をなさないものもある。
羅針盤は、今しか指さない。
それを信じるかどうか。



来月は、久々に関東。
去年の6月。茨木のり子展とシュタイナー展。
闇に浮かぶ光を追いかけた旅以来。


随分、その時とは見ている景色も違うけれど、
それでも、やはり、世田谷文学館、かな。
6月の雨の文学館、あじさいが美しかった。
シュタイナー展で見かけたラベンダー色が、私のことをずっととらえている、と気付いたのは、最近。
http://blogos.com/article/106420/
あと、単位展。
なつかしい友達にも会う。
今度こそ、落語も聞きに行けるかな。