誰のためでもなく、いつかの少女のため。

洗濯物を干すのが好き。
新鮮な気持ちになれるし、
ふっと、季節の匂いや風を感じたり、
色んなことを思いも寄らず思い出したりする。


今日は、ふと、ビンゴ大会のことを思い出した。
人の幸せを奪ってはいけない、と感じた、原体験だと思う。


私の育った小さな地区の公民館前の広場。
小学校4年生、5年生くらいだったろうか。
何かの催しのプログラムのひとつにビンゴ大会があった。
私は、友達とつれだって参加し、田舎町ではあまり体験することのないビンゴ大会(私の記憶では、ほぼ初めての)に、うきうきしながら参加していた。
しかし、ビンゴ大会が進むに連れて、それは、恐ろしいものだということがわかってきた。


ビンゴになった子は、喜び勇んで前に出る。景品をもらうと同時に、司会の人に質問される。
その質問を聞いて絶句した。
「おとうさんの名前は?お仕事は何?」
そう、地域の催しだけに、そういう身内の話題で盛り上がることができる。


私は、静かにカードを持った手をおろした。


もし、私がビンゴになったら。
あの場所に立ったら。
私が本当のことを言ったら。
きっと、会場の人は、いたたまれない気持ちになるだろう。
そして、私は、そこにいる人たちの幸せを奪うだろう。


私は、ここから静かに身を引くことが最善策だと思った。
ここに、私の居場所はない。


ビンゴは、それから、ずっと苦手だ。


結婚式の二次会でも、たとえビンゴになっても、なかったことにする。
そうすれば、私以外の人に景品が当たる。
私には、そっちの方が、ずっと気持ち安らかだ。
それは、優しさとか、譲り合いとか、そういうものとは全く違い、
ただただ、自分自身の恐れからはなれ、安心を得るための行為。


人の幸せに踏み込まない。
人の人生に介入しない。


そういうことを、日常のささいなことから、人は学習してしまう。


教師という仕事を、なぜ、私は選んだのだろう。


あの頃は、そういう、鏡に映る「私のような人」を救いたいなどと思っていた。
しかし、救えるはずもなく、介入する勇気もなく、正対することさえできず、責任を持てるわけもなく。
結局、幼い頃の自分を、ずっとずっとひきずりっぱなしではないか、と。


このドミナントストーリーの書き換えを、何度も試み、大きく成功し、しかし、揺り戻しが起こり、また葛藤し…。


わたしは間違っていない、という瞬間と、わたしは間違っている、という瞬間が、交互に交互にやってきて、そのことを、世界に打ち付けるようにタイプする。


幼い私に出来たことは、文章を書き、その自分を正当化することだけで、
自分の存在を切り離し、切り分け、刻み付けることだけだった。


国語の教師になりたいと思った。
言葉が私を救い、世界を変え、人生に意味を与える。
言葉を書く事が、本を読むことが、私の存在を意味付け、書き換えて行く唯一の方法であったから。
結局のところ、誰のためでもなく、私は、いつかの私のために、この仕事を選んだのだと思う。


「先生、どうして教師になったの?」
無邪気な君の問いには、いつだってうまく答えられない。


いつか国語の授業を開く時、私は、閉まっている少女のことを話せるだろうか。


結局、教師になったら話そうと決めていたことを、この10年、全く話せなかった。
そうして、言葉を失っていく。
言葉を失えば、存在を失うことも同義であるというのに。