『生命は その中に欠如を抱き…』

この1週間で、いくつもの訃報が舞い込む。
祖母が亡くなったのも1月だった。
春はまだ遠い。
日が長くなるように、気候が暖かくなるように、悲しみも癒えていくといいのだけれど。

詩人の吉野弘さんが亡くなった。
中学生だった私に、詩が人を救うということを教えてくれた人だ。
吉野さんの詩をもっと読みたくて、図書館司書だった母に頼んで、町の図書館にはない蔵書を、府立図書館からたくさん借りてもらったことを思い出す。

中学2年で教科書に載っていた『虹の足』を読み、心底感激した。
その後、国語の先生が同じ詩人による詩ということで、プリントに印刷して配った『夕焼け』に泣いた。
自分のことを理解されたような、代弁されたような、そんな気持ちになった。
『夕焼け』は、今でも、わたしに問いかけ続ける詩だ。
吉野さんの死を知る日の朝も、twitterで、『夕焼け』のことをぼんやりとつぶやいていたのだった。

そして、『I was born』の衝撃。
『真昼の星』のように生きたいと思った15の夏。
この詩に出会った日は、人生で一番泣いた日だった。
飼い犬の愛犬kaicookに手を噛まれて、血だらけになりながら声を出して泣いた。
病院でも泣き続けた。
詩を読んでさらに泣いた。
ぐちゃぐちゃだったわたしの忘れられない日。

祝婚歌』…憧れた、救われた、そして教えられた。正しいことは、人を傷つけやすいものだということを。

心に残る詩はいくつもあるが、
中でも私が好きなのは、『生命は』という詩。
映画『空気人形』に使われていて、出会い直した。
http://d.hatena.ne.jp/Yuka-QP/20110214 (3年前のブログ。空気人形のことや、吉野さんのことを書いている)。

この詩の最後の一節は、即興の世界を見事にあらわしているなあという気がする。


「私も あるとき
 誰かのための虻だったろう

 あなたも あるとき 
 私のための風だったかもしれない」(吉野弘『生命は』より)


人に影響を与えようとか、何かを伝えようとか、人のために何かをしようとか、
そんな意図を超えたところで、わたしたちは、深く関係し合っているし、わたしはだれかを引用し、また、だれかに引用されている。
誰かを想い、傷つき、喜び、を繰り返している。そうとは知らないままに。

えらい人だからとか、すごいことを言っているとか、そんなことではなく、
ふと通り過ぎる花屋さんで、春を感じる一瞬のように、
わたしたちは、人と関係している。

そんな程度のゆるやかさで、わたしは教室でいることができればと思う。

今年の卒業アルバムで卒業生に贈る詩は、吉野さんの詩にしよう。
吉野さん、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
吉野さんの詩は、わたしの中に生き続けていく。
かたちを変え、問いを変えながら。
詩は、私のための…空のような存在。
心模様によって、色んな表情を見せる…ね。