これも、冷静と情熱のあいだかしら。

 
 熱くなれないことに対する罪悪感って、どうやって学習してきたのだろう。

 高校時代、吹奏楽部。おおげさに、しかしながら純粋に、部活に命をかけていた自分。

 そして、純粋さゆえに、傷つけてしまった。無気力であったり、責任感が感じられなかったり、熱意が感じられなかったりする人々を。

 今では、わかるのに。その気持ちが。

 甲子園を目指さない、草野球の楽しさが。あの時のあの人の気持ちを、私は、わかることができなかった。

 「仕事だから」とわりきれれば、それでいいのに、自分の心がついていかない。
 
 学ぶことが大好きなはず。

 それなのに、学ばないといけない、と思うと、しんどくなるのはなぜ。

 学べていない自分が苦しいのはなぜ。
 
 人が一生懸命学んで、きらきらしていると、私は、そうはできない、と、ひいてしまうのはなぜ?

 そうして、そういう自分でもいいと、言ってもらいたい、今は。

 自分の中がごちゃごちゃしている。

 そして、それは、私が、知らなかった世界と出会って、違和感が増大しているせいだと思う。

 わかりかけている途中で、変わりかけている途中で、きっと、きっと、願わくば発展途上で、きっと、きっと、熱くなるための途中で、そうなるために、こうして、自分で自分がいやになるくらい、冷たくて、沈んで、無気力で、面倒くさくて、どうでもよくなっているのであってほしい。

 なんだか、「不登校」になってしまう、子どもの気持ちがわかる。

 今日、カフェ・コモンズで手にとった本たち。

 私が、今感じている気持ちは、恥じるべきものなんだろうか。間違っているものなんだろうか。甘ったれたものなんだろうか。子どもの考えなんだろうか。

 私は、ずっと、こんなだ。自分が愚かしいというのは、自分でも、一番よくわかっているところ。

 そして、その反対の自分も、きっと自分の中にはいると思う。

 これは、もう、物心ついたときから、自分の中に共存している二者で、きっと、誰にも、誰も知らない、その人たちがいる。

 自分で自分に課してきた足かせに、苦しめられている。全く違った価値観にあって、その足かせの存在に気づいて・・・。

 そして、ゆっくり、ゆっくりと、自分が変わっていくこともある。

 見た目は、変わらない。

 一年前の自分とも、3ヵ月前の自分とも変わらない。

 でも、身体を流れる血は、全く別物のようだ。

 笑顔も涙も、全ての感情も。

 私は、今、守られているし、帰る場所があるから、いろいろ、不安を受け入れられるのだと思う。

 不安や悲しみを引き受けられるときというのを、ちゃんと、神様は、わかって、与えてくださっているのだと思う。

 今が、きっと、そういう時期なのだ。

 幾千の素晴らしい人たちの光のまぶしさと、愛と、情熱に近づけなくて、闇にまぎれていたい時期なのだ。

 きっと、光がほしくなるときもある。誰かの光になりたいときもある。

 そしてまた、闇の中でしか、聴こえない声もある。闇の中でしか、見えないものもある。

 江國香織さんのエッセイを、電車の中で読む。

 毎日、必ず、眠る前には、彼女の文章を読む。

 それは、それは、彼女が大人で、女性で、少女であるから。

 こうあらねばならない、と、苦しむ私の前に、

 そっと、全く違う価値観で、しかしながら、心地よい人生を、差し出してくれるから。

 今日、カフェ・コモンズで出会った本たちも、そうだった。

 学校の中で、私が決して出会えない空気や、時間や、感情が、文章の中に流れている。

 今、そうした言葉と、大切な人、大切な人たちの存在、そして自然こそが、自分に生命を与えてくれている気がする。

泣かない子供 (角川文庫)

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「ゆっくり」でいいんだよ (ちくまプリマー新書)

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不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

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オオカミと石のスープ

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 なんにもないから楽しいんだ。
 生きているのが好きなんだ。   谷川俊太郎「なんにもない」より