あんなこと、こんなことあったでしょう。

 今日、修了式でした。

 1ねん1くみのこどもたちとすごした日々が、幕を閉じました。

 あいかわらずの一日で、子どもたちは、特に「別れ」という意識もなく・・・

 まあ、それでよいのだと思います。

 あせっていたり、感傷的になっていたりするのは、担任ばかり・・・

 2月から作っていた『フォトストーリー』を、DVDにしてプレゼント。

 1年間の思い出の写真、あのときの、あの表情が、いっぱいつまった写真集。

 それから、運動会のポニョのダンスと、秋の遠足の大冒険も収録・・・

 子ども達へは、最後、こんなことを話した。

 というよりも、出てきたのは、こんな言葉だった。

 「せんせいは、みんなのことをきらいでおこったことは1度もありません。

 みんなのことが大好きで、みんなに素敵な大人になってほしいから、おこるのです。

 そして、みんなのえがおが大好きでした。

 いつか大人になったら、会いにきてな。せんせいは、100とうの100かいにすんでるから・・・(ということになっている。)ありがとう・・・」

 3学期になって、おこられっぱなしだった、やんちゃのSくんが、ポツリという。

 「せんせいも、たいへんなんやで。」

 そして、一人ひとりと握手をして、最後、みんなで「インパルス」をして、せーので「またね!」

 そうして、春の日向に散っていった。

 桜のころに、あどけない表情で、不安と期待を、小さな背中にいっぱいしょってやってきた1年生の子どもたち。

 それが、本当にたくましくなった。

 1年間発行した学級通信「のはらうた」・・・これも最終号。

 「せんせい、いっしょにかえろ」・・・よく声をかけてくれたかわいいボーイズと、最後の帰り道。

 あいかわらず、お尻に頭突きしてくるし、かんちょうしてくるし、ズボンずらしてくるし、ほんまに笑いっぱなし、あきれっぱなしの帰り道。

 あ、桜が咲いているね。

 もう、そんな季節ね。

 お母さんが用事のため、Sちゃんを、あずかることに。

 2人で、コンビニに行って、一緒に昼ごはんを買って、食べる。

 電車の旅ごっこをしながら食べる。


 黄色い菜の花を見ながら、「ドアがしまりまーす」なんて言いながら、食べる。

 Sちゃんとは、きっと、一番たくさんご飯を一緒に食べたなあ。

 出会いと別れ。

 いつも思う。

 別れが、出会いの意味をつれてくるのだと。

 その出会いに、どんな意味があるのか。どんな価値があるのか。

 出会ったときはわからない。

 一緒にいるときもわからない。

 その人と別れてみて、はじめて、身体に残る感覚。心に押し寄せる感情。

 それらが教えてくれるのだから。

 3月・・・この別れの季節には、いつも、「教師」という仕事の素晴らしさを感じる。

 ああ、出会ったのだなあ、この子達に。

 これほど、濃密な日々を過ごした同士。共に生きた者との別れ・・・それは、苦しいほどにつらい。


 誰かと会うために生まれてきた・・・

 その出会いの奇跡に感謝しながら、別れを惜しむ。

 すべての記憶が、美しく綴じられてゆく。

 不思議なくらいに。

 もう、毎日、感傷的になりすぎて・・・

 あんまり泣かないはずなのに、

 学校では、「泣き虫の藤原」です。

 だって、ああ、こんなに素晴らしい仕事。

 子ども達とばかりじゃない。職場の先生達との別れの季節でもある。

 人との出会い。それこそが生きる喜び。

 こんなに出会いの喜びを味わえる仕事・・・幸せだなあ。

 子ども達に贈ったフォトストーリーのBGMに、二階堂和美さんの『思い出のアルバム』を使った。

 その歌詞を紹介・・・私のこころ、そのものです。

 
 
 春のこととか夏や秋や冬や あんなこと こんなことあったでしょう

 写真めくれば 残る笑顔に 上書きで また 刻まれる 

 どうしてかしら ときがながれて今 あんなこと こんなこと あったのに 
 
 かなしかったことは うれしかったことの かげにかくれて わすれそう

 おもいだすのは よみがえる景色は あんなこと こんなこと どれもが
 
 ほんのささいな なにげないこと いつか記憶がうすれても

 生きてきた日々 ともにすごした日々 あんなこと こんなこと あったけど
  
 桃のお花もきれいにさいて 

 もうすぐみんなは1年生
 
 もうすぐみんなは1年生
 
 また明日から 1年生