代弁者

 一昨年の夏、全生研の研究大会に行ったときのこと・・・。

 「代弁者」という言葉を聞いた。
 
 クラスのAくん。そのAくんが、問題を起こす。そのとき、クラスのみんなは批難する。その中では、Aくんは、攻撃されるままか、反発するかどちらかだ。そこに、Bくんという、代弁者がいたら…。Bくんは、Aくんが決して語ることのできない、思いを理解し、それを、クラスのみんなへの共通言語にして伝えることができる。

 確か、高学年の分科会での発言だったと思う。「代弁者かあ。」非常に胸を打たれたのを覚えている。

 さてさて・・・

 来年度の方向性に向けての学校評価に関する職員会議。

 今日は、勝負の日になる…そう思っていた。そしてやっぱりそうなった。

 本校で、ずっと取り組み続けている「縦割り活動(異年齢集団作り)」による、掃除の取り組み。

 うちの学校では、毎日の掃除が、縦割りの班で行われる。
 
 運動会などの行事だけではなくて、毎日の生活の中で、子ども達の関係を構築し、6年生のリーダー性を育てる…というのが、特別活動部としての目標。

 しかし、今年度、色々、掃除時間に、上級生から下級生への嫌がらせなどがあり、保護者からのクレームもあり、縦割り掃除をなくした方がいいのではないか、という声が上がり始めた。(昨年より、少しあった。)

 「なくしたほうがいい」という方の理由は…

 ・学級での掃除のほうが、子ども達を指導しやすく、きれいになるから。
 ・縦割りでやると、上級生の悪い影響を、下級生が受けやすく、指示が命令口調になったり、横柄な態度をとったりと、悪しき伝統になっている。
 ・問題がたくさん起こっており、続けていくのは、弊害の方が大きい。
 ・6年生が、リーダーらしい行動ができていない。
                     などなど。

 
 私は、縦割り活動を支持する派であり、そこには、結構色々な思いがある。

 先週の特別活動部だけの会議でも、自分の思いを言えば、泣きそうになってしまうし、今日も、職員会議で、反対意見を言う先生が1人、2人、と発言されると、心臓は、もうことことと音を立てて振動し、それは、「言わねばならない。」と、自分の身体が、しっかりと私の意志を示している様子だった。


 いざ、発言し出すと、もう、全然いつもの声が出ない。ああ、あんて小心者なんだろうと思いながら、胸をつまらせつつ、だ〜っと、自分の思いを述べる。

 ・私自身が、縦割り掃除に支えられてきた教師の1人だということ。1年目、クラスが全くうまくいかなかったときでも、掃除の時間になれば、縦割り班の班長を中心に、子ども達が、教師の力なくとも、掃除を仕上げてくれた。子ども達が頼もしく、また、子ども達に救われると感じた。

 ・力のある教師(子どもを、教師の力で、コントロールしきれる教師)であったならば、学級掃除の方が、楽なのだろうが、私はそうではない。また、そうでない先生もいるし、これからどんどん入ってくる若手の先生も、また、そうだろう。しんどい学校で、しんどいクラスも、存在していくと思われるが、その先生達にとって、クラスの子ども達を、全校の子どもや教師が支えてくれるというのは、とても有難いことだと思う。

 ・問題が起こるからやめよう、という意見が出されたが、私は、問題が起こるというのは、いいことだと思う。子ども達は、問題から学び、成長していく。もし、6年生の状況がしんどくて、問題が起こるからやめるということになれば、その6年生の持つ課題を、担任が丸抱えすることになってしまい、負担が余計かかる。

 ・今は、子ども達の間に、問題が起こるとはいえ、それが顕在化しているというのはいいこと。もし、縦割り活動をやめれば、お互いの顔も名前もわからなくなる。顔が見えないところで問題が起こるようになると、もっと状況はしんどくなる。

 ・数年前に、始まった本校の縦割り活動。これによって、かなり、学校も、子ども達もよい方向に変わってきている現実がある。このシステムを作り上げるには、かなりの苦労があった。「ゼロ」から「1」を作るというのは、並大抵のことではない。今、悪いところばかりがクローズアップされているが、縦割りによって保たれているものも、見えにくいが、随分あると思われる。

 ・教師の間で、縦割り活動の意義について話し合うのも大切だが、子ども達が主体となってやる取り組みであるので、子ども達に縦割りの是非について、意見を出し合う機会を作るべきではないか。

 などなど…。

 もっと思っていることはあるのですが、個人的な批判になりうるので、ここらでストップ。

 色々な先生達からも、次々と意見が出される。

 

 状況が悪くなったときに、それでも、信念を持ち続けられるか?

 何かの是非を問うときに、その集団で、最も弱い立場の人の意見に耳を傾けられるか?

 あるものに対して、マイナスのイメージを持ってしまうと、ささいなことにも敏感になり、どんどん考えが偏ってしまいがちではないか?

 問題が起こらないようにすることを目指すことで、理想の教育を忘れ、無難に、小さくまとまってしまうのではないか?

 子どもが問題を起せば起すほど、教師は、問題を起さないように、コントロールしようとするが、それが本当の解決になるのか?

 教師や親が、偏見を持つと、それは子どもにも伝染する。縦割り活動の意義を感じている教師と、そうでない教師とでは、接する子ども達の影響も、スタンスも、全く変わってくるのではないか?

 事なかれ主義に陥って、子ども達は、自ら学んでいく力を持っているということを、信じられなくなっているのはないか?

 ・・・・


 ああ、わかります。みんな不安なんです。でも、安易なほうに流れるのではなく、こういう状況だからこそ、子どもの声を聞きたいし、子どもと手を取り合って、彼らの持つ力を信じて、志高くやっていきたい。

 楽をしたらいいと思うんです。教師は。教師が楽なのは、子どもに力がついているということだから。

 でも、自分が指導がしやすい、という楽さを選びたくはない。

 そんなの、何にもしなけりゃ、楽ですよ。必要最低限のことだけ与えて、問題が起きないようにして、自分のコントロールできる範囲内に、小さくまとめれば…ね。

 でも、そんなことを目指して、教師をやってるのではないでしょう。

 
 
 『くだらないことに夢中になれる君達はすばらしい』

 12月に、「明日の教室」で仲里先生が、こんな言葉をおっしゃっていた。

 大人から見れば、意味不明で、くだらなくて、こんなことやって、何が楽しいの?というようなことで、子ども達が喜び、活動している光景が、たくさんある。

 それを、「こんなくだらないことやってないで、勉強し!」というのか、

 「こんないい顔してやっているのなら、それがもっと高まるような支援をしよう!」と思うのか。

 ・・・

 今年は、いろんな行事、いろんな取り組みを、「なくしたほうがいい」という言葉のオンパレードだった。

 「学力が身につかないから、行事をカットして、学習時間にあてたい」

 しかし、「学力」とはなんだ?それは、テストで点数が上がることでない。そんなちっぽけな目標のために、私達は、日々教育活動に取り組んでいるのではない。


 しかし、行事をカットして、学習時間にあてようという声がたくさん上がる。たとえば、全校で取り組む学校内のおまつり。子ども達が、お化け屋敷やら、さかなつりやら、色んなお店を出すもの。

 
 行事を通して、子ども達が関わり、何かを創り、その中でコミュニケーション能力が育ったり、想像力が育まれたりする。問題が起これば、そこれ、問題解決能力が育ち、また、仲間と何かに没頭して取り組む楽しさ、快楽が、一生残る感動になることだってあるのだ。

 昨年までは、「6年生との縦割り班でのお別れ会」に、5年生の子が、手作りのすごろくを用意して、1年生から6年生まで、頭をよせあって、遊んでいた。

 スタートしても、すぐ「一回休み」になったり、「スタートにもどる」になったりして、全く進まないすごろくもいっぱいで、まあ、大人からしてみれば、「くだらない」かもしれないが、子ども達は、そんな手作りすごろくを、実にほんわかした空気で楽しんでいるのだ。

 大人が判断する学びの価値。子どもの価値。

 しかし、それより、ずっとずっと深い学びをしている。学ぶ力を、生きる力を、彼らは持っている。

 重箱の隅をつつくことなら、誰でもできる。

 楽な方向に逃げることなら、誰でもできる。

 やめることは・・・簡単だ。

 
 糸井先生が、昨年、別れのときに、私に向けて、贈ってくださった言葉。

 『小さくまとまるなんて、つまらない』

 先生が、かつて野村誠さんから言われた言葉だという。

 そう。

 長いものに巻かれれば、そりゃあ楽だが、おもしろくない。

 幸いにも、教師の言うことなんて、聞かない子ばっかりなので、私も、相当鍛えられた。

 おかげで、今がある。

 ・・・

 放課後、家庭訪問。とある家庭で、大泣き。

 私は、この小さな子の、代弁者にならないといけないと思った。

 守るべきもの。

 わかってないようで、でも、大人よりずっとわかっている、その小さな背中。

 わかっているようで、でも、全然わかっていない大人。

 正しいことだけを、教えればいいのではない。

 この子の痛みを、私は、伝えないといけなかった。

 そんなに、この子を責めないでほしい。

 やりたくても、できない。

 やろうとしてなくても、やってしまう。

 そんな子どもの心の内は、本人だって、言葉にできぬ。

 子どもの心がわかり、親の思いがわかる。

 その間に立つ人間が要る。

 どんな世界にも、きっと。

 

 ドラマよりも、ドラマティック。

 そんな毎日です。だから、私はこの子達と、ここで生きることを選ぶのだろう。