教室に残って、あれやこれや仕事をしていた私を、ふくしろ先生が帰り際にたずねてきてくれる。
話を始めるなり・・・
「私、力のない教師で、ほんと、よかったわ〜」って。笑顔がとっても素敵な先生で、そして、会話のところどころで、目にたまる涙と、そのピュアネスに、私は、戸惑いそうになる。20歳以上、年上の先生だけど、まるで、少女のよう。うらやましい。
こうやって、教室で、職員室の隅で、カフェで・・・話し込むようになって、どれくらいだろう。
お互いの思いや、戸惑いや、悩みや、葛藤・・・それらを吐き出す。そうして、それを聞き合うなかで、立ち居地を確認したり、自分の思いを新たにして・・・。
私達は、お互いへの相談はしない。
答えは、ちゃんともう、すでにあるのだ。教えてもらおうとは、思ってない。学びたいとは思っているけど。
でも、自分ひとりでは見えなくなってしまうから、ぶれてしまいそうになるから、くじけそうになるから、
そっと背中を押してほしくて、今のままでいいよって言ってほしくて
誰かに会いにいくんだね。誰かと話しにいくんだね。
そうして、給食台に腰掛けながら話し込んでいるなかで、先生が教えてくれたこの言葉。
「子どもにさせるべき正しいことは千も万もある。しかし、一万回の正しいことをさせることは間違ったことをさせることだ。」
「子どもが100人いたら、ひとつのルールに100の例外がある。」
なんて、いさましい。子どもをまるごととらえ、育てるというのは、そういうことよね。激しく、共感する。
そして、自分が、知らず知らずのうちに「小さくまとまろう」としてしまっていることに気づいて、ため息。
私達は、なんてちっぽけなところで、子どもを操作しようとしているのだろう?
私達は、なんてちっぽけなところで、学力を、教育を論じているのだろう?
そう思わざるを得ない。
それは、「自己責任」という言葉のもと、課されるプレッシャーのせいでもあるし、「評価」と「管理」のせいでもある。
私たち、教師が怖気づいているような職場で、環境で、どうやって、子どもたちにのびのび育てというの?
そこらへんの矛盾を、なんとかしたい。
さて、これらの2つの言葉は、先生の前任校におられたS先生の言葉らしい。
今までの、会話の端々に、前任校の、子ども観・教育観が出てきて、それは、今私が働く学校の文化とは、かなり異なるもので、驚いた。そして、惹かれた。
ふくしろ先生は、前の学校の文化と、今の学校の文化の間で苦しんでおられる。
今日の会話の中で、その文化を創っている、発言力のある先生というのが、S先生だと知った。
そして、なんとも偶然なことに、S先生は、糸井先生の話の中にも何度も出てきた、『素晴らしい先生』と同じ人だった。びっくり!!!つながっている。
入学したばかりの1年生に、教えるべきことは、山ほどある。
その中のひとつが、「話を聞くときは、手はおひざ」だろう。
私も、そう指導したこともあるし、その指導の必要性もわかっている。
でも、どこか違和感もあった。
そんなとき、鹿島和夫さんの本で、こんな文章に出会う。
『子どもは、手で話を聞く。』
衝撃的だった。
その本には、子ども達が、頬杖をつきながら、髪の毛をさわりながら・・・実に様々な姿勢で、話を聞き入っている写真が載せられていた。
そうなのだ、それが、子ども達の自然な話の聞き方なのだ。
正しさって、なんてくだらない。なんてつまらない。なんて味気ない。
子どもの写真を撮る人は、探すだろう。
子ども達の、最もいきいきとした顔を。喜び、怒り、悲しみ、楽しさ。
誰もが、同じ方向を向いた、表情のない写真なんて、かなしい。
きどった集合写真。
おきまりのポーズ。
えらそうな校歌もその仲間や。
『窓ぎわのトットちゃん』に出てくる、校長先生が作ったトモエ学園の校歌のエピソードも意味も、やっと理解できる。
ふう。
色々話してたら、あっという間に1時間。話は尽きないものね。
お互い、大切なことを確認できて、勇気をもらいあって、解散。笑
帰ってから、ある人からのメールに返信する。
私がインプロと教育について書いた雑誌の原稿を読んでくださって、ブログにコメントをくださった方。
その方からのメールに、岡本敏子の「強いカナリア」という言葉がある。
以下、ウェブからの引用です。
「強いカナリア」となって、生きていく。
洞窟にガスが溜まっていないかどうか調べるときに、
カナリアをかごに入れて持って行くでしょう?
人間より敏感なカナリアはガスがあると死んでしまうの。
そんなふうに、敏感なひと、感性の鋭いひとは、
時代の空気とか社会のガスみたいなものを敏感に感じてしまう。
それだけに、生きていけなくなってしまうひともいる。
弱いカナリアはいっぱいいる。
でもね、弱いカナリアでは世の中は変えられない。
感性の鋭いカナリアが、強くならない限り、世の中は変えられない。
自分の声でなければ鳴けないんだもの。
カナリアがウグイスの声で鳴いたらおかしいでしょう?
でもウグイスが流行っていたらウグイスの声で鳴こう、
っていうひとがいっぱいいるのよ。
今はそういう時代なの。
だから、カナリアがか細い声でもいいから
自分の声で一生懸命鳴いているっていうことが
とっても貴重なのよ。
それがちゃんと世界を動かすのよ。
以下、興味あったら見てみてください。おもしろい!岡本さんの本、もっと読もう〜!