幸福を深くする。


 何も怖がらずにいられること。

 絶対的な信頼があること。

 どう転んでもいいと思えること。

 ずっと、そうなる気がしていたこと。


 

 今日は、2年くらい前に会って、最近再会した人で、でも、ずっと会うはずだった人と会いました。

 朝は日差しが心地よく、昼間は曇り空がしっくりと来て、夕方は雨が似合う日でした。

 カフェにはKeith Jarrettが流れていた。

 予想外のことも、期待通りのことも、どちらも好ましい。

 いっぱい話したり、話さなかったり、歩いたり、歩かなかったり。

 自分と他者の間を行き来しながら、過ごす時間というのは、豊かです。
 
 私は、一人では生きていかれないけれど、一人にもしてほしい。そして、自分もそうしたい。

 動物界の不文律です。つかず、離れず。

 がまくんとかえるくんのような関係が、人間関係の理想。

 江國香織さんの著書『絵本を抱えて部屋のすみへ』。

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

絵本を抱えて部屋のすみへ (新潮文庫)

 その中の、アーノルド・ローベルの、がまくんとかえるくんの4冊の絵本についてか書いた章に、こういうくだりがある。

 “読んでいて、ともかく心地がいいのだ。心地がいいというのは素敵なことだ(私など、心地よさはあらゆる行動の動機および目的たりうると思っている)。そして、心地よさの最大の理由は距離感で、がまくんもかえるくんも、必要以上に相手に接近したりしない。自分の場所を守ること、という動物界の不文律は、彼らの本能にちゃんとインプットされている。しかも、彼らは文明生活を営むかえるたちであるから、その居場所をきわめて心地よくととのえる。あたたかな部屋、やわらかなベッド、三時にはお茶とお菓子。
 

 ・・・中略・・・

 一人になりたいこともあるのだが、そういうときには置き手紙を残し、ちゃんと一人になりにいく。
 大切なのは、自分が誰かに必要とされているということだ。自分の居場所がある、というのは最終的にそういうことなのだし、がまくんとかえるくんの日々の生活は、ほとんどその一点で支えられている。単調といえば単調な彼らの生活が、ああも愉快そうなのはそのせいだと思う。誰かをおもうことの温かさ、それをこんな風にしずかに語れる作家は、ほかにちょっと思いつかない。

 ・・・中略・・・

 さらに、「がまくんのゆめ」(『ふたりはいっしょ』所収)というお話にはこういう文章もある。

 「かえるくん」
 
 がまくんがいいました。

 「ぼく、きみがきてくれてうれしいよ。」

 「いつだってきてるじゃないか」

 かえるくんがいいました。

 それからふたりはたっぷりあさごはんをたべました。

 それからながいすばらしい一日をいっしょにすごしました。

 

 そうやって、彼らは何度もくり返し相手を発見し続ける。そのたびに、少しずつ、幸福を深くしながら。”

 
 今日の会話の中で出てきた、親友の話が、がまくんとかえるくんのおはなしとシンクロする。

 あなたとあなたの親友のいる景色を想像すると、すごく遠くて、深くて、ぐ〜んとなった。

 帰り道に、母から電話。少し慌てて、一駅前の、無人駅で降りてしまう。

 この途方も無さ。誰もいない駅のホームと、やまない雨。

 色んな意味で、過渡期。この1年もまた、変化の年になるなあ。

 週末は、久々に丹後に帰る…それまで生きててな、快くん。