感じる。それは、誰も踏み込めない場所。


国語の時間。

 ずっと、ずっとやりたかったけれど、形として見えていなかったこと。それが、2月6日の堀兼小学校の研究発表の1年生クラスを参観して、そして、昨日、「歌のインプロ」のWSに参加して、見えました。

 「のはらうた」の詩の朗読しよか〜。

 子ども達に、人気のある詩をいくつかピックアップ。

 「へびいちのすけグループ」や、「こりすすみえグループ」や、「かまきりりゅうじgループ」や、「おがわはやとグループ」や・・・に分かれる。自分の読みたい詩に集う。

 そして、読み方や、振り付けを考える。

 我がクラスのキッズは、「のはらうた」が大好きだ。あの詩集を、ぱらぱらめくって、楽しそうに読んでいる。

 学級通信の名前も、「のはらうた」で、それは、なんといっても、子ども達が、「のはらむら」に住んでいる登場人物の、だれかにそっくりで・・・いや、彼らはすんでいるのだと思う。

 私も、のはらむらに住みたい、いや、きっと、ふるさとがのはらむら。

 人間の感情のもろもろが、全部のはらにあるのだと思う。

 一人ひとりが、分かれて存在していて、でも、どこかでつながっていて、見えない感情の揺れを、誰もがどこかで持っているということを、口に出さずとも、のはらむらのみんなは分かっている。

 なつかしい気持ちや、せつない気持ちや、ゆかいな気持ち。

 いつか、誰もが通り抜けた気持ちが、みんなここにあるんだもの。

 だから、大好きよ、のはらうた。

 きゃっきゃ、きゃっきゃと楽しそうに、グループでの創作活動を楽しむ人達を、見ているのが、心地よい。こういう学び方を、彼らは好んでいるのだと、改めて思う。

 来週の授業参観で、お家の人に見せようね。

 それから、5時間目の音楽。

 掃除が終わったあと、あまりにベランダでの日向ぼっこが気持ちよいので、お外で音楽することに。

 しかし、出てみると少々寒い。

 しかし、子ども達は、テンション高く、いろんなところに、自分達の住処を見つけて、鍵盤ハーモニカを吹いたり、吹かなかったり。

 「ぼくたち、4人かぞく〜」といいながら、並んでドレミ。

 「思い出のアルバム」を、一緒に吹いたり、吹かなかったり。

 まとめようとしても、まとめきらないので、ほっておいて。

 子ども達は、ひとつには、決してならないのだけれど、ひとところにいる。

 それは、「村」のよう。

 家族がいたり、一人暮らしがいたり、旅人がいたり、楽団がいたり。

 みんなと何かがしたい人もいたり、一人で気ままに生きたい人もいたり、色んな人を訪ねたい人もいたり。

 まだまだ風は冷たいけれど、空の青と、雲の白さが美しい2月の午後。

 「感じる」ということは、こういうことなのだと思う。

 「感じなさい」なんていうのは、おかしいでしょう。

 集中しないでいい空間、決められた何かをしなくてもいい空間、でも、うっすらと刺激のある空間。

 そこに、ぽ〜んと放り出されてみて、ぐらりと揺れて、ふらふら舞って、ばたりと倒れる。

 そこに、「感じる」という行為があるのだと思う。

 押しつけられては、手に入れられないもの。

 身勝手で、わけわからなくて、きちんとしていなくて、ばらばらで。

 そこを通り抜けて感じられるもの。

 「考えさせる」ことは、色々、方法があって、教育現場でも、いっぱいされてきてて。

 でも、「感じさせる」ことは、罪だし、できないと思う。

 ただ、「感じる」。

 そのために、いっぱい捨て去らないといけないことがあって、それは、リスキーで、でも、私は、「感じる」ために、生きたいし、子どもにも、そうであってほしいのだと思う。

 自分が、学校現場で、幸せを感じるとき。

 それは、子どもと、何かを、一緒に「感じている」とき。

 

 教育的かどうかを説明しなさい、なんていわれたら、困ってしまうけれど、

 私は、今日、子どもと、春の空と風を感じながら、鍵盤ハーモニカを吹きたかった。

 それは、自己満足のように映っても、私の中には、他者としての子どもがいて、「こうしたい」って言ってるんです。

 夜は、林加奈さんのお家へ。

 先月の、我が小学校での、ドリームコンサートのビデオ上映会。

 ビデオを見ながら、コンサートのもろもろを思い出しながら、

 また、「感じる」という営みについて考える。

 主観的で、人に説明しにくかったり、共有しにくかったりするので、難しい。

 でも、人がその人らしく生きていくために、必要なこと。

 みんなで、みんなができることを、みんな同じようにすること、同じようにできるように、指導することが、平等ではないのだということを、はっきり、改めて感じる。

 しかし、そういう平等が求められてしまう。

 そうやって、色んな人が、「いい」と思えることが「いいもの」になってしまう。

 わかりやすいものは退屈で、みんなわかりきっていて、安全で、みんな一緒で・・・

 でも、そんなもの見ても、そんなもの創ってもどうしようもないやん?

 演劇では、その場にいないことも表現になる。

 クリエイティブな環境では、色んな表現が認められて、それは、色んな在り方が認められるということで、本当の平等があると思う。

 みんなが、前を向いて、みんなが大きな口をあけて、みんなが楽しそうに歌えること。

 学校では、そこに向かっていかなきゃならないのが、不平等だ。

 ドリームコンサートが、いかに幸せで、いかに、学ぶべきものが多いコンサートであるか、私は、まだまだわかってないし、でも、わかりたいと思う。

 わかりたい・・・そう思う人が、まわりにたくさん増えていってほしいと思う。

 ため息を大きく吸い込んで!