今日は、2ヶ月ぶりの「明日の教室」。最近、子どもへの対応に、余裕が無くなってきたから、深呼吸するつもりで、楽しみにしていた。
私の思い通り、すご〜く、新鮮な、美味しい空気をすうことができる研究会だった!
今日の講師は立命館小学校の仲里先生。
初めてお会いする先生だったけど、そのスポンテニュアスな在り様に感激した!ほほう、こういうふうに振舞えるものなのだなあ!そして、こういう人が、授業をすると、こういうふうになるんだなあ!
アーティスティックでした。授業の構成も、流れも、学級経営も。
つまり、教師が、学び方を設定したり、持っていき方を決めすぎず、子ども達のアイデアやひらめき・つぶやきを、ループにのせながら、ゴールは、ちゃんと通過するような感じ。むしろ、ゴールなど、軽く超えてしまうかのような。
それは、教科学習のゴールより、人間的な成長のゴールを見据えているからだと思う。
算数でも、想像力を育てようとしている。というよりは、想像力を持てる人間を育てようとしていると、算数も、そうした授業になる。
仲里先生の感性が為し得た授業だと思います。でも、こういう授業が求められていくのだと思います。
授業はおもしろくないと意味がない。
そう、おもしろさに徹底してこだわる。
そういう姿勢が、学校での授業作りに欠けていると思う。
おもしろくなくても、わかればいいかもしれないけど、おもしろいから、わかるんだと思う。
色んな研究授業見に行く機会があるけれど、なかなか「おもしろい」と思えるものは少ない。
授業には、それぞれ目標があって、その目標に近づけたかどうかを討議するのが筋かもしれないが、やっぱりおもしろくない授業は、どうかな〜と思う。子ども達がキラキラしていない、授業は、つまんないと思う。目標に沿った展開になっていたかどうか、それを話し合うだけなんて・・・。でも、現状はそうだ。
仲里先生は、徹底して、授業のおもしろさ、子どもがどれほど夢中になっているかにこだわっておられたが、それは、仲里先生の、子どもへの興味と愛情がベースにしっかりあるからだろう。
子ども達のことを、愛おしいと思えば、子ども達のわくわくする顔が見たいと思う。夢中な姿が見たいと思う。成長した姿を見たいと思う。
そうして、どんどん授業もおもしろいものを生み出していけるのだろう。
学校にいてても、みんな、どれだけ子どものことを、愛おしいと思っているんかな、と思うときがある。
子ども達は、自分の思い通りに動く生きものではない。それぞれが、異なる人格を持った人間だ。
そのおもしろさを、感じ、感激し、共にあることを喜べるのが、教師という職だ。また、そうあらねばならないと思う。
「教師」を仕事としてはいるが、子ども達は、私達の仕事の出来・不出来を表す成果物ではないということ。
しかしながら、そのことを、履き違えている場面が、多いようにも思う。
だから、失敗を怒り、教師の言うことをちゃんと聞く事をよしとし、自分の手に負えないことは、子どものせいにするのだと思う。
そういうことが、おかしいと思いつつも、くだらないと思いつつも、現場にいると、感覚が麻痺してくる。
こうして、研究会に来て、子どもと共に授業を創っている先生の話を聞くことが、なんと、心地よく、心洗われることか!
今日は、研究会に行く前に、「複雑系」の話を、読み返していたところだった。仲里先生の話にも、「複雑」という条件を授業作りに加えるという話が出てきた。シンクロするな〜世界は。
私たちがもっとも深く恐れるのは、自分が不十分な存在であるということではない。私たちがもっとも深く恐れるのは、自分が計り知れないほど力に満ちた存在であるということだ。
これは、以前ブログでも紹介した『誰が世界を変えるのか』に出てくる一節です。
この一節は、教師と子どもに置き換えられる。つまり・・・
教師が、もっとも深く恐れるべきなのは、子どもが不十分な存在であるということではない。教師が、もっとも深く恐れるべきなのは、子どもが計り知れないほど力に満ちた存在であるということなのだ。
本当に、そう思ったなら、私達は、今の授業スタイルから、革命的に変化を起こさないといけないと思う。もちろん、これは、クラス単位の変革ではいけない。学校全部の変革。
今日、寝屋川市の素敵な中学校の校長先生とも話が出来た。
ああ!校長先生になりたくなってきた!