くりかえすこと

2度目の塩狩峠

3年前と同じように、駅のすぐ側、線路沿いにある小さなユースホステルに泊まる。
オーナーの方が、とても親切にしてくれる。こぎれいでかわいらしいユース。


私は繰り返すことが好きだ。
繰り返すということの安心感。
知っている、という満足感。
戻ってきた、という心のおだやかさ。



それは、物語の繰り返しをこどもたちが好むことと似ている。
期待。そして、期待に応えうる展開への愛おしさであふれている。
ああ、私に必要なのは、繰り返しだ。
不安定さを、整える、繰り返しのリズムだという気がしてくる。




それでも、物語はずっと同じではなく、ハプニングや出会いが、同じ景色を少しずつ変えていく。
また、自分自身が変わってしまったということに気づくことも、繰り返しの場面では起こりうる。
そして、変わらないままなのは、どんなことなのかということも。


塩狩峠にて、三浦綾子の『塩狩峠』を読みながら、私自身の過去と、現在向き合っているテーマが、くっきりと浮かび上がってくる。
3年前にここにきた時とは、確かに違うようにその物語を読んでいるわたしがいる。
そして、この小説を読むことの意味合いも、読後感も、思い浮かべる情景も異なっていることも明らかになる。
同じ物語を繰り返し読むこと。
星の王子さまも、そういうふうに何度も読んだ。
名作は、その繰り返しに応え得るテーマの豊かさを持っている。



今回の旅の最初、札幌の居酒屋で、「人には話すと引かれる話をして」ということで、到着早々に、ブラックな歴史を話すことになる。
小学生の頃の、私の罪。
軽く話したが、長いこと、私には軽くは話せないことだった。


その罪は、今だって、私の中に生きている。
そして、種類は違えど、
毎日、毎日、どこかで自分自身のこころを巣食う小さな黒い染みに、目を背けながら生きている私がいる。



中学生の頃、ブルーハーツマーシーの歌う「チェインギャング」が好きだった。
「キリストを殺したものは そんなぼくの罪のせいだ」という歌詞。
その歌を聴くことでしか、救われることのない感情。





誰か、すごく憎い人がいたとすれば、
その人は、私の弱さや罪の意識を、うつしだしている鏡のようだ
なぜ許せないか、考えてみると、
結局は、自分自身の寂しさにいきつく。
その時、その時、出会う人や物は、私を映し出す鏡。
今回の北海道の旅も、私という人間を、出会うものすべてがうつしだしてゆく。



石井ゆかりさんは言う。


「物語のクライマックスでは
 過去に仕込まれた伏線をすべて、回収しなければなりません。」


少し泣きだしたい気持ちで読む。
回収・・・しきれるだろうか。


旭川に向かう電車の中で、「塩狩峠を読む」という講演会が催されていることを知り、
塩狩に行くまでに旭川の公会堂に立ち寄り、話を聴く。
隣の図書館でふらふらしていると、ある作家についての文学研究本が目に留まる。
崩れおちてしまうような文章。
評論を読みたいと思う。
立ち寄ってよかった。



夕方になるにつれて、どんどん頭痛が激しくなり、
旭川の駅で頭痛薬を買う。
宗谷本線。
旅先で、列車の窓から見える景色が好き。
風をあびながら、自分の中に流れる水の質量のことを考える。
エーテル体、よみがえれ。



夕闇の塩狩

歌碑の森。


旅には、「泥流地帯」を持ってきた。
4月くらいから読み始めて、三浦作品としてはめずらしく、全然読み進められず、
結局、まだ最後まで読めていない。
この旅で読み終わる予定。
この読んでいる過程が、まさにぬかるみのようだった。