Editに罪悪

映像の書き出しが何度やってもうまくいかない1日。
容量がいっぱいで、データを消さないといけない。
その判断までする気力がないから、また書き出しにチャレンジして、やっぱり、途中でエラーになる。
エラーになるってわかっていて何度も試すあたりは、
私の生活そのものだ。



NHK東日本大震災アーカイブスを観て、資料を探す。
http://www9.nhk.or.jp/311shogen/summary/evi/19/


編集された映像を、授業者として選ぶ。それも編集行為だ。

例えば何かの映像を見せるとき、つくるとき、私の中で湧き起こる「こころを動かしたい」という欲求。
そして、その欲求を持つ自分自身を冷ややかに見る私自身もいる。
「感動させたい」という心と、軽蔑する自分と。
感動系の映画に感じる白々しさ、みたいなものとどこか似ている。
でも、その欲求は、私の中にだって、はっきりと存在し、そうした視点で教材を選んでいるということ。


この、編集する私の、嘘っぽさというか、不誠実さというか、とらわれ、視点を、ちゃんと解体していきたい。
この1年、授業で映像を使うことは増えたし、きっともっと増えるだろう。
創り手であることも含めて、今まで以上に何を撮り、選び、見せよう、見せないでおこうとしているか、しんどいところに、足を踏み入れる時期にきている気がする。


映像編集は、楽しく、辛い。
私は、これは、見せたいんだな、これは、見せたくないんだな、ということ、自分の醜さみたいなものを、自分で自分に見せつけながら進んでいくようだから。
写真は加工でき、映像はトリムでき、音楽でごまかすことができ、テロップで説明することができれば、
未完成で、ぐちゃぐちゃとした見るに堪えないものは、耐え得る現実へとなり得る。


その映像をつくる過程の葛藤は、小さな嘘をつく私と、似ています。
似ています。


ああ、、、、書き出せないデータさん。



頼んでいた短歌集が届いた。


Twitterで見つけた歌人の岡野大嗣さん。

短歌。
これくらいの短い歌なら、今の私でも読むことができそうだから。
きっと、ふっと寂しさにおそわれる春にはぴったりのはず。

サイレンと犀 (新鋭短歌シリーズ16)

サイレンと犀 (新鋭短歌シリーズ16)