花園


ミッションだった映像編集一本終了。
明日は学校に行かなきゃならない。
探さないといけないものもある。
週末、見たい映像もあるけど、見る元気があるだろうか。
多分、見られない。
もう少し元気になれるはずだった。
動くにも、話すにも、少し足りない。



アートワークは、今年度最後だった。
自我感覚。
「たしかに出会ったという瞬間に相手から受け取ったイメージ(相手の自我)を描く」という課題に、うまく応えられなかった今日という日。
つかまえきれなかった。
考えすぎて、つかめない。
そういうことも、あるのでしょうか。



PTCでいただいた花束。
家に大きな花瓶がないので、小さな花瓶をいくつもつくる。
sousouデザインの日本酒の瓶(美味しい)や、北海道から持って帰ってきたジンジャーエールの瓶(かわいい)や、母から譲り受けたドレッシングの空き瓶(レトロ)。
薔薇やガーベラを数本ずつ挿して、家中に花が置かれる。
本当は、この花束は、母にあげるとよかった、と思う。
実家にいた時はそうしていた。
母は花が好きだから。



もう終わりかもしれない、何もかも、と、毎日毎日思う。
学校の階段で、そう思う。
家の絨毯につっぷして、そう思う。
そんなふうにして毎日は、うっすら、うっすらと積もり重なっていく。
穏やかで緩やかなあきらめに近い感覚。
1日の中にだって、最も明るい瞬間と、最も暗い瞬間があり、
最も暗い瞬間の方を、わたしは積み重ねているようで。


冬の終わりの夜。
チェロは、どこまでも、どこまでも、落ちていくわたしのそばにいて、でも、底に行き着くまでに抱きとめてくれるような音。



2010年の1月に祖母がなくなった時、
雪の舞う道を、実家に向けて走った車の中でずっと聴いていたのは、Hughのピアノだったこと。
葬儀を終えて、どうにも気持ちがふさぎ込む時に観た映画は「おくりびと」だったこと。
その時も、チェロの音色に救われたこと。
そして、その後、ちゃんと春がきたこと。
はっきりと覚えている。



去年の冬の終わりの写真。
去年の方がいい写真家でした。
そういうことが、ひとつひとつ、未来の自分のダメージになるだろうとは、わからない今を生きている。