3日目。最終日。
朝の詩を唱えたあと、先生はわたしの机にろうそくを置いてくださった。
そして、じっと私を見つめながら、「わたしは美しさの中を歩く」という歌を歌ってくださる。
その後、わたしのためにてづくりの詩を読んでくださった。
先生がその人に詩を読む時間、ろうそくを置かれた人のことを思う時間。
こころに人知れない悲しみを持っているが、その悲しみが美しさに変わる。
それは真珠のように。内なる美しさとなり、輝く・・そんなことをうたった詩。
先生のおだやかな表情を見て、詩を聞きながら、海の青と真珠の白が見えた。
ああ、詩を読んでもらうって、こんなに喜ばしい体験なのだと感じた。
わたしは、子ども一人ひとりに自分がつくった詩を読むことはあるが、自分が読まれる側になって、
特別な体験であるということを全身で感じた。
この詩は、もともとクラスの生徒さんに読まれた詩なので、私のためにつくられた詩ではないけれど、
その中でも私と合うものを選んでくださったとのこと。
今日の動物学のテーマが深海であったことともつながりがある。
3日間。
シュタイナー学校での学びは、自分の内なる輝きを見つける経験だ。
先生や芸術から与えられる世界に、内なる世界が手を伸ばす。学びたいと。感じたいと。触れたいと。
世界への、そして自分への感動のある授業。
それがシュタイナー教育だと、強く思う。
細やかに文章にしたいことは山ほどあるので、ブログではなく、昨年同様、レポートに書こう。
シュタイナー学校は、歌で始まり、歌で終わる。
詩で始まり、詩で終わる。
握手で始まり、握手で終わる。
はじまりと終わりの美しさ。安心。おだやかさ。
こんなにも清らかなこころがあったのか。
こんなにもなめらかな動きができるのか。
こんなにもやさしく笑えるのか。
こんなにも夢中になれるのか。
わたしは。
わたしのどこに、そんなわたしが隠れていたんだろう。
オイリュトミーの伴奏曲は、小学生の頃弾いたベートーヴェンのソナチネだった。
ああ、私が子どもの頃、私の生活には、音楽や物語やあふれる自然があった。
プリミティブで美しいものに囲まれながら、自分や世界への希望や信頼感を持つことができた。
もちろん、傷つくこともあったけれど、ちゃんと美しいものが自分を救ってくれた。
それは、今でもそうだ。
ピアノの伴奏で入場の円やレムニスカートを描き歩きながら、私は自分の子ども時代に感謝しながら泣きそうになる。
音楽に合わせて歩くだけで、どうしてこんなに幸せなんだろう。
そして、私の周りには音楽はあふれ、いつも音楽とともにあるはずなのに、
どうして、私の内側は、こんなに音に感動しているんだろう。
そして、ふと思う。
私は、音になっている。
音になる体験。
内側から音が導き出されるような。
シュタイナー学校で歌われる歌、リコーダーの音色は、
そんな音の体験にあふれている。
ひとつひとつの体験を、私の心と体が喜び、再生のエネルギーに満ちていくのがわかる。
もし、神様がいるのなら、どうして、私にこの経験を与えてくださっているのだろう。
どうしてだろう。
最後のハーベストでは、私のクラスに在籍しながら、6年間シュタイナー学校に通っているお子さんのお母さんにも出会うことができた。印鑑だけ持っているので、どんな子だろうと、公立小学校とは別の学校で幸せに学んでいるだろうその子のことを思っていた。
笑顔の素敵なお母さんで、卒業証書の受け渡しで出会うことを楽しみにしているという話をした。これも、不思議な巡り合わせ。
私のこころが泉なら、今、その泉は湧きあがり、波打ち、きらきらしている。
私のこころが鳥なら、歌が歌えることが嬉しくて、飛び回っている。
私のこころがろうそくなら、そのともしびは風に吹かれても消えることのない、おだやかだけれども芯のある光を放っている。
梅雨が明けた。
青空に映えるメイポールに結い上げられたパステルカラーのリボン。
3日間のクラスメイトとつくった模様は、新しい物語の始まりのように。
その感動と驚きをこころに響かせながら。
リボンをほどき、さわやかに手放す。
ここもまた、はじまりでありながら、旅の途上だ。
黄昏。
夕焼けの絵を選ぶ人は、自分自身に向かう旅をする人。
3日間。
絵を描いたわけじゃない。
粘土をこねたわけじゃない。
それは、世界への驚きや感動を自分の心に灯し、その内なる輝きを意思の力に変えて、新しい世界を手のひらから生み出す経験。
少しずつ、自分への信頼を取り戻す。
何度も巡る季節の中で。
何度も同じ歌を口ずさみながら。