天使はもういないけど

金曜日。
ミーティングの後、緑ちゃんとわたしたちの(!)イタリアンカフェ、いつもの席でだらだら喋る。
緑ちゃんの小宇宙の中から、脈略もなく、あるいは、選びとって、時にある種の決断をせまりながら差し出される言葉を、
どんなふうにその日の自分自身が受け取るのか。
そのこころの揺らぎこそが、わたしが聞きたいわたしのこころの声なのだと思う。
自分のこころの声が聞きづらい時に、こうして話せる友人がいるのは本当にありがたいこと。
魔女の宅急便みます。
ウルスラみたいな緑ちゃん。
出会って8年になる大切な友人。


土曜日。
2回目のアートワーク。
思いっきり寝坊する。


前回の振り返りをしながら、ついついあれこれやってしまう多血質の自分を振り返る。
話しながら、ああ、今のわたしがやってて楽しいことは「書くこと」なんだなって思う。
やらなくてもいいのにやってしまうことを、今は大事にしようと思う。
わたしにとって書くことは最後の抵抗で、救いで、自分の手の中に理解を超えたことを取り戻し噛み砕くことで、
そして、ほんのすこし自分から離れ、違う自分になることでもある。
書くことは、幸福な時ほどわたしから離れ、手の届かないところにいってしまうものでもある。
壁にぶつかったり、落ち込んだり、悩んだりしているときには、ちゃんと戻ってきて、
わたしを生きさせてくれる。
書くこと、書く自分。
きみも古い友人。


アートワークは、シュタイナーの感覚論「魂の扉・十二感覚」を手がかりにしたレッスンに1年をかけて取り組む。
ファシリテーターはちおさん。
今日のテーマは、生命感覚と思考感覚。

生命感覚の中で大切なのは痛みを感じる感覚だと。
そして、学びのためには痛みが必要だというお話。
前半のワークでは、自分が肉体的に痛かった体験を、後半のワークでは精神的に痛かった体験を描く。
描きながら自分と対話し、描き終わったあとちおさんと対話し、他のメンバーの絵を見ながら語りを聞き、心が揺れ動く。


ケガの話の中で、「ケガも自分が呼んでいる。自分の中でケガをする準備をしている」という言葉をちおさんが話してくれる。
ふと江國さんの『号泣する準備はできていた』を二重の意味で思い出す。


「たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。」(江國香織『号泣する準備はできていた』, p.227, 新潮文庫. )


何気なく読んだり聞いたりする物語の中で登場人物の痛みを感じながら、自分の「人生の練習」をしている、ということ。
これは、先月のふうみんによるドラマワークで学んだことと通じる。


そして、それさえも、いつかの痛みのための準備になってしまうということ。
もちろん、「なってしまう」ということであって、「そのために」という目的意識はナンセンスだ。
物語は、ただ物語として味わえばいい。


アートワークが終わってから、これまた大切な友人と過去のカルマの話をする。
少しだけ似た少女時代を過ごしたわたしたちには、共通の痛みと、それぞれの解消、そして未整理の感情がある。



28歳を過ぎ、自分のそばにいた天使がいなくなったわたしたち、
もうすぐ魂の危機を迎える(らしい)わたしたち。
真剣さと、ちゃらんぽらんさを持ちながら、
それでも、歌を忘れちゃいけないね。


大切な友人たちと話し続ける週末。
先の見えない海を、みんな、それぞれに渡りながら、小さな灯をくれる。
天使はもういないけど。
その闇の中。大人になったわたしたちには、友人がいるということなんだろうか。


「偏頭痛」



「光と闇」