見届ける人

冬を飛び越えて春が来たかのような年の瀬。あたたかい日差しの1日。

年賀状。クラスの子どもたちの写真を眺めながら、一人ひとりに短いメッセージを書く。

彼らの色んな表情が浮かぶ。

「おはよう」と笑う顔、いやなこと言われて泣いた顔、友達とうまくいかなくてすねた顔、くりっくりと目を輝かせてつかまえたかまきりを見せに来る顔…

冬休み前には、クリスマス会という名の達成会。
日常の中で「宝石」ポイントをためて(宝石クラスにしようというのが、彼らが決めた合い言葉なので)、たまったら、達成会を開く。


企画は全部彼らがする。グループはすごく流動的で、自分がやりたいことをやる。やりたくないことはやらないらしい。
途中までプレゼント係で紙芝居&人形劇をすることになっていたけど、前日に「ぼくはおみくじ係をやりたい」と脱退して、おみくじ係を始めた。そこに、もう一人、ふわっとどこからともなく新しい仲間が加わる。


当日は、サンタクロースになる人、ダンス、歌、合奏、地獄先生ぬ〜べ〜の劇、アンケート&コント、人形劇、オリジナル紙芝居、読み聞かせ、ビンゴ、おみくじ…彼らの創りだすカルチャーを存分に楽しむ。


それは、決してスムーズに進んでいるのではなく、きちんと整っているわけではない。「見るに耐えうる」ものか、と言われれば、そうでない部分も多々ある。カオティックで未整理で途上だ。ひやひやもする。でも、ものすごくクリエイティブなのだ。失敗したっていいよ。ちゃんと見てるから…そう思いながら、iPadを持って立つ私。


彼らを見ながら、ふと思う。彼らには、見届ける人が必要だと。私は、その人にならないといけない。交通整理をする人ではなく、混沌を見届ける人。何の確信もないけど、そんなふうにしか思えなかった。


たくさんもめる。めんどくさいことも起こる。私には直接どうしてもあげられないことばかり。
そのめんどくささや混沌に付き合ったり、見守ったりすることしかできない。


プレイバック・シアターでは、テラーが語った場面(思い出・記憶)を、アクターが表現として捧げる。そして、その捧げられた表現を観客は見守る人として存在する。観客にも、大切な役割があるのだ。その表現を見届けることで、完成させる人なのだと思う。


好き、でつながったコミュニティでは、新しい人間関係が生まれ、発達の凸凹も見えてこない。彼らの「つながり方」や、それぞれの「生かし方」は、教師が目論むそれとは全く違う。現状のカリキュラムでは余暇活動のようにしかとらえられにくい係活動だが、昨年、今年と、そうした「好き」「興味」でつながるコミュニティの可能性を教えられることが多い。

この辺は、整理してみたいことのひとつ。

それから…今学期の彼らから私への評は、二つ。

「色々なことをやらせてくれてありがとう」
「おもしろがってくれる」

環境設定とその場を楽しむ人。そういう人で私があることを、彼らは評価しているし、求めているということはわかった。


実家のある京丹後へ帰省。
明日から大雪になるそうだが、夜道は、嵐の前の静けさといった感じでおだやかだった。
荷物は、相変わらず多い。まるで引っ越しをするみたい。本も両手で持てないくらい持ってきてしまった。
洋服も誰に会うわけでもないのにごちゃごちゃと。
決めることの苦手さのあらわれでもあるし、必要なものがたくさんありすぎるのだとも思う。


最近愛読しているTwitter 江國香織botから、今日のTLに流れてきた引用。

“好きなものをたくさん持っている人ほど、悲しみもふえる。”(江國香織『つめたいよるに』)

ああ、私にも好きなものがたくさんある。