マーニーを観て、思い出したこと。

思い出のマーニー』を見た。

http://marnie.jp/trailer/index.html

思春期の少女の物語でありながら、わたしの物語でもある。
いつかの私の、そして今の私の。

監督・米林さんの企画意図についての文章。
「大人の社会のことばかりが取り沙汰される現代で、置き去りにされた少女たちの魂を救える映画を作れるか。」
http://marnie.jp/message/index.html

心揺さぶられる文章。

映画をみながら色んなことを思い出す。

15〜16歳の頃のこと。
自分を分かってくれる人を見つけた、と思ったときのこと。
それは鏡のなかの自分だった。
共に涙してくれる友達。
「輪の外にいる…」と、思っていた。

自分の苦しみに、親との関係が強く影響しているとき。
それを、許せたなら。
自分の歴史も、父母や祖父母の歴史も愛せたなら。

そうしてゆるしていくと、自分にかけたのろいもとけていく。

そう、自分で自分にかけた「のろい」…シューレ大学の学生さんの言葉だ。
https://www.facebook.com/coreplus07/posts/679657445407331 

アダルト・チルドレンって知ってる?」
中学生のある日、母にこう尋ねられた。「知らない」と答える私に、母はその答えを言わなかった。
自分で調べてごらん、と。

その答えを調べはしなかったが、言葉の意味を知っていたら、もっと言葉の意味にのろわれていたかもしれない。その意味に支配され、決定づけられ、言葉に従順であったかもしれない。

野口裕二さんの著書『物語としてのケア』には、そうした「過去ののろい」「言葉ののろい」が、「問題の染み込んだストーリー」、あるいは「ドミナント・ストーリー」という言葉で指摘されている。少し長い引用。

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「たとえば、子供の頃、父親の暴力に怯えながら毎日を過ごしていたという経験が語られ、そこにいまの自分の「生きづらさ」の原因があるという物語が語られたらとする。もちろん、これ自体、そのひとにとって切実でリアルな物語であることは間違いないし、このように語ることによって、そのひとの人生が混沌とした状態から脱してひとつの一貫した意味をもつようになることも間違いない。
 しかし、一方で、このような物語はあまりに明快すぎて、そのひとのさまざまな「問題」をすべて「親との葛藤」という原因に帰着させてしまう可能性がある。」
(中略)
「もともと、物語には人生を制約する作用があることはすでに述べた。いったん、ひとつの物語ができあがると、さまざまな経験がそこに引き寄せられて解釈されるようになる。また、そうすることで、その物語はますます強固になり信憑性を増していく。しかし、それは見方を帰れば、ひとつの「ドミナント・ストーリー」に支配されていくことともいえるのである。」
(中略)
「つまり、物語ができあがることはひとつの通過点にすぎない。その後で、それをさらにどういう物語に発展させられるかが次の重要な課題となる。そうでなければ、これから先の人生のすべてが、単に過去のつらい経験の延長上の出来事になってしまう。過去の経験に呪縛された人生という物語になってしまう。それはまさに、「問題の染み込んだストーリー」を生きることを意味する。
そこから脱出するためには、自分のこれまでのさまざまな経験を含みながら、なおかつ、それだけに限定されない新しい物語をつくらねばならない。もし、アダルト・チルドレンの物語やトラウマの物語が、そうしたプロセスの一環としてとらえられるならば、それはナラティブ・アプローチと実質的に同じことをしているといえよう。しかし、「問題の染み込んだストーリー」をただ再生産しているだけならば、それは、ナラティブ・アプローチと「似て非なるもの」ということになる。」(pp.153-154, 野口,2002.)

自分の歴史を知るだけではなく、その歴史の意味を、自分自身で作りかえる、あるいは乗り越える作業がどうしてもいるのだと思う。

話は戻り、映画『思い出のマーニー』。

訪れる危機にうちのめされ、葛藤し、意味を探し、作りかえていこうとする姿に心打たれた。涙、涙。最近涙腺弱いのか、昨今のクライシスのせいか。

マーニーとアンナとのの出会いのようにファンタジックな形ではないにせよ、
ふとした時に親の歴史を知る経験がある。

語られなかった歴史を知ること。

映画「地下鉄(メトロ)にのって」、「異人たちとの夏」を思い出す。
この2つはもっとやるせない物語だったけれども。家族の過去、自分の過去と出会うことが、今を動かしていく。

わたしにも、いつか、もっとすっかりと、ゆるせる日がくるだろうか。
自分で自分にかけたのろいと、すっきりと、すっかりと、さよならできる日が。