物語の型や、わかること・わからないことについて。

夏休み映画、3作品目。
『奇跡』

是枝監督の映画の中のこどもたちは、自然体で、いきいきと、いじらしく、愛らしい。

昨日観た作品と共通することはいくつもあるだろう。

こどもが主役であること。
こどもが冒険に出かけること。
こどもの周りの大人たちが、こどもの行動から変化や希望を贈られるところ。
別れと、別れとどのように向き合い、生きていくかが描かれているところ。
単純な解決はしないところ。
主人公が当初思い描いていた状況とは異なるように、新しい世界が開けて行くところ。

。。。。。

国語の授業で、いくつかのストーリーを扱いながら、そのストーリーの物語の型の特徴を比べながら読んで行くような授業をしてみたい。


***
ストーリーには、いくつかの型がある。

教師の物語を聞く時に、わたしたち(教師)は、自分自身の持っている、ありは馴染んでいる物語の型を使いながら、そこにあてはめながら話を聞いてしまいがちだ。それは、日本社会、あるいは学校教育の中で生きてきて、文化的に獲得してきた型、スキーマだ。

しかし、時に、その馴染んだ物語の型をあてはめてしまうために、そのスキーマでは理解しきれない物語や事象、出来事、感じ方・・・を見落としてしまう。

教師の物語が、最初は失敗をしながら、色んな人と出会う中で成長し、変化し、今は立派な人になり、若手を育てている・・・といった型で語られて、言い換えれば片付けられてしまうことは、とても残念だ。

もちろん、そうした物語もたくさんあるだろう。
しかし、ひとつひとつの物語は、違う編み方をすることもできるはずで、編み直しによっては、全く別の物語として読むこともできるだろう。

自分自身が身につけてしまっている型はどのようなものか?
それに、自覚的であるか?それとも無自覚か?
違う型にはどのようなものがあり、それによって、物語はどのように見え方が変化するか?

問い直し、問い直し、問い直す。

大学院で学んだことは、言語化だけではなく、自分自身の身につけてきた型の自覚と問い直し、異なるスキーマの発見、そして物語の編み直しの作業だったのかもしれない。

と、考えながら、自分自身が何を学んだかを、問い直している。

何を学んだかは、その時々によって、違ってみえるのであって、確固とした何かという実態があるのではなく、今の私には、そう語ることができる、という、そういうものだ。1年後の私は、過去の出来事を、違うように意味づけるだろうし、それは楽しみなことだ。

「わかる」ということに終わりはなく、いつも、わかっているとわからないの境界は曖昧で、わかったつもりで、でも、後に、ああ、あれはわかった気がしていただけだったのだ、とわからなくなりながら、わかっていくようなもの。

ここまで考えて、なぜ私が、昔から、私のことや、こどものこと、教育のことを、わかったように語る人のことを不快に思うかが自分でも納得がいく。

わかった気にならないで、と思っている。
そこで、終わらせないで、と思っている。