北海道にて。

北海道の地に初めて降り立つ。
空港から札幌へ移動する電車に乗って、これを書いている。

中学生の頃、憧れたYUKIが過ごした函館のある北海道。
三浦綾子の生まれ育った街であり、小説にも度々出てくる旭川のある北海道。

二人とも、人生のある時期に少なくはない影響を受けた人で、私にとっては特別な存在。彼女らの向こうに、まだ見ぬ土地を感じていた。

今回の旅路で、飛行機や電車の中で読むために持ってきた本は、『道ありき』。
たしか、留学中にニューヨークの古本屋で見つけた。
同じく留学中に『塩狩峠』を読み、激しく心動かされ、どうしても三浦綾子の作品が読みたくて、古本屋で探したように記憶している。

8年前。
冬休みを利用して、社会福祉を専攻している大学生と、ワシントンD.C.にボランティアに行った。私が参加したのは女性のホームレスのためのシェルターだった。英語もろくに話せない私は、戸惑いながらそこを訪れる女性たちと関わっていたが、同様に アメリカ人の大学生たちも、なかなかに苦労していた。

数日を過ごしたワシントンからウィスコンシン州・オークレアまでの帰り道。24時間はバスに乗っていたんじゃなかっただろうか。とにかく、長い旅路だった。その道中で私は『道ありき』を読んだ。
小学校教師を目指す私には、三浦綾子の小学校教師として情熱や使命感を持って生きた日々と、敗戦を経験し打ちのめされた経験、教師としての自分を責め、問うた姿は、他人事として読むことのできないものだった。
また、前川正の生き方と、彼との出会いの中で変わっていく三浦の姿、そこに描かれるキリスト教の教えや言葉、クリスチャンの生き方は、涙なしでは読めないもので、激しく心を揺さぶられた。

あの頃。
アメリカに行って、キリスト教について学びたいと思っていた私は、学生主催のバイブル・スタディーに参加したり、教会に行ったりしていた。 しかし、期待していたようにその文化に馴染めない自分を感じてしまったのも事実だった。神に祈ることも、賛美歌を歌うことも、抵抗があった。そうした私の戸惑い、一方で感じるキリスト教の思想への畏怖の念、クリスチャンの友人への尊敬、そうした入り混じる様々な感情や経験も、『道ありき』の中の三浦綾子に投影させながら読んでいたように思う。また、当時、片想いをしながら文通やメールのやりとりを続けていた人と前川を重ねたりもした。誠実で真面目な人だった。

あの一冊の本の中に、様々な私の断片を、重ねて読んでいた。
そして、8年後の私は、その本を再び読み返し、今度は、かつての自分をその本の中に読む。同時に、今の自分と比較もし、変化を感じながら読む。

8年後の私は、北海道へ向かう飛行機の中で、やはり涙を流す。
8年前に、心に残った場所で折った折り目が、本のページの端っこに残っていて、同じところで心打たれることに、懐かしみや嬉しさを感じもする。

いつ、はさんだのかもわからない押花(花ではなく、草で、何の草かもわからないくらい、しわくちゃ)も発見する。

8年前の私は、8年後の私が、こんなふうに読むことは想像もしていない。
「今」は、耐えず、未来への手紙だと思う。
私は、過去の自分には、決して勝てないと、いつも思う。
過去の自分に教えられてばかりだ。
今をどんなふうに生きるかは、未来の自分を動かす。

だからと言って、何かを頑張るのではない。
相変わらず、うまくはいかない、旅の途中で、感傷的になりながら、言葉を探す。その行為が、いつかの私を、少し救うようだ。

さあ、札幌に着く。
今夜は、中島公園の近くに泊まる。
明日の早朝、帯広へ。

ひとりになれる旅と、いつかの私や、私の周りの人々と思いもかけず出会い直す旅が始まっている。
20代最後の夏休み。