うちなるこえにみみをすます

梅雨に入ったらしい。

雨が降っている。

季節の移ろいが、色んな記憶を連れてくる。

この頃になったら、必ず思い出す、高校の時によく通ったあじさい通り。裏門から入って、美術室のところに出る道。音楽室からも見えたね。

もし、一枚だけ、高校の校舎の風景を撮るなら、あの道を撮る。

傘立てに腰掛けて、ぼんやりと眺めていた雨のあじさい通り。

あ、写真はいらないか。だって、こんなにはっきりと目に焼きついている。



『ポケットに名言を』という寺山修司の詩集があって、それを、本当に制服のポケットに入れていた。あの詩集があると安心だった。

遅刻して学校に来て、どうにも途中から授業に入りづらいときは、北校舎のベランダに出て、階段の踊り場に座って詩集を読む。

そこは、逃げ場でもあったし、居場所でもあった。

世界と、真正面から向き合えない。

そういう自分だったのだろうし、今もそうだろうし、そういう向き合い方で向かいあっていたのかもしれない。

あの頃から、ずっと、ずっと自分、他者、社会、世界について考えている。

考えても、考えても、すっきりとはしないものですね。

抱え続けているコンプレックスはそのままだし、でも、少しばかりの自信も、いろんな経験の中で持てるようになった。

踊ることは、その中でもとりわけ大きな出会い。

それでも、やっぱり、劣等感はやってくるし、ずっと、付き合っていくのかな。



言葉が出てこないのは、自分の内なる声に耳を傾けていないから。そして、内なる声を、検閲して、押し込めているから。

不思議なことに、内なる声を閉じ込めてると、他者への言葉も出てこない。愛情も、優しさも、すべて閉じこもっていく感じなのだ。これは、いけない。元気がどんどんなくなってしまう。

やっぱり、まず、自分が開かれること。自分を開くこと。自分の内なる声を、私、私が聞くこと。

自分を受け入れられない人は、他人も受け入れられないとはよくいったものだ。

そうなのです。本当に、きっと。

レーニングだと思う。

内なる声に耳を傾ける。

私の声は、私にしか聞けないのだから。

身体の声を聞こう。

記憶をたどろう。

過去と未来の話をしよう。

しばらく、あなたと話をしていなかった。

近くて遠い、私とわたし。