社会科では、情報化社会についての学習をしていますが、
さてさて。
生身の人と出会って、受けるエネルギーは、身体を熱くしたり、温めたりするのに、
どうして、メディア越しに出会うと、身体の温度が下がるのだろう。
ネット越しに、素敵な人に出会うたびに、落ち込む。
ネットで、素晴らしい実践に出会うたびに、脱力する。
私には、できない。
私には、無理だ。
私は、本当につまらない。
こんなふうにはなれないし、こんなふうには生きられない。
一気に熱を奪われます。
それは、私にとって、すごく悲しいことです。
自分の身体なのに、自分ではコントロールできない感じ。
情報を浴びることが、不安を増大させたり、自分を見失わせたりすることが、あるように思うのです。
私の心の声。それが聴けなくなることや、その声に自信が持てなくなることは、苦しいことだと思います。
普段は、本当にささいなことに心動かされ、嬉しかったり、幸せになったりするのです。その生活の素晴らしさといったら・・・。
でも、ネットを開くと、一気に、そうした生活の素晴らしさを、灰色にされてしまう気がします。
ほら、もっと学ばないとだめでしょう。
ほら、あなたは、こんなにもちっぽけ。そんなので、いいの?
「足る」ということを知って、幸せになれると思うのだけれど、
ネットは、「足りない」というメッセージを、発し続けられる気がする。
ここ数ヶ月、何度となく、このような、同じ内容の文章を書いています。
このモヤモヤが、なんだか、自分にとって、すごく意味のあるもののような気がしているからです。
詩集が好きです。
絵本が好きです。
小説が好きです。
なぜなら、そこに出てくる暮らしは、
どこかの、誰かの、小さな物語だから。
そうして、そうした、どこかの誰かの、小さな物語が、何物にも比べられないような味わいや、魅力や、色を、持っていると、感じられるから。
江國さんの小説が好きなもの、きっと、そういうわけだわ。
覚めた身体の温度、心の温度を上げるためには、自分の身体を動かして、心で感じること。そして、それを伝えること。
いつも誰かと比べている。
自分で自分を不安にしている。
逃げようとしている。
思春期の頃と、全く変わりのない自分に、あきれながら、一方で、おもしろがりながら、
今日も、自分と旅を続けます。