「悔い」では、ないけれど。

 自分のことを、すごく鈍感だと思うことが、多々ある。すごく恥ずかしくなるくらいに。まわりの人の、鋭いセンサーがうらやましくなる。

 一方で、自分のことを、すごく敏感だと思うこともある。傷つきすぎると思う。詮索しすぎると思う。自信がなさすぎると思う。繊細だと思う。

 教員になって3年目。今年も運動会が終わった。

 1年で、1番、どきどきする取り組みだ。1番時間をかける取り組みで、1番子どものことを考えて、子ども達を愛おしく思う。同時に、自分の感性との勝負。自分のこだわりとの勝負。そして、周りの教師・もちろん子どもとの勝負のときでもある。

 終わった。いつも、終わったあとで、ほっとできないのが私だ。

 どう観られたか、それが、非常に気になる。それによって、自分の取り組みが、天にも地にもなる。

 自分が、この運動会の取り組みを通して、作り上げたかったもの、子ども達と分かち合いたかったもの、子ども達に伝えたかったもの、そして、観ている人に感じてほしかったこと。

 それらについて、詮索が始まる。

 「かわいかったよ」「やっぱり、低学年は、何をしててもかわいいね」

 それは、もちろん、うれしい言葉ではあるが、素直に喜べるわけではない。

 かわいかったらいいというダンスがしたかったわけじゃない。

 もちろん、振り付けは、子ども達が喜ぶ振り付けで、観ている人に、子ども達のかわいらしさが伝わる振り付けを、と思ったから、振り付けは、それでいい。

 でも、もっと深く言えば、一つひとつの振り付けに、子ども達に、感じてほしかったことや、伝えたかったことがある。そこまで、感じてもらえただろうか、と不安になる。

 わかりにくいものは、よくなくて、できるだけわかりやすく。でも、説明的でなく、詩的に。

 自分が、こうしたかった、というのを、結局、全部伝えきれてなくて、伝わらなかったなあと思う部分もあるし、あきらめた部分もあるし納得のいかなかった部分もあるし。

 でも、そういうのも全部ひっくるめて、今日の演技だったわけだ。

 もちろん、子どもたちは、最高だったと思う。もう1度やりたいとも思わない。

 ただ、もっと。もっと。そうするためには、何が足りなかっただろう。そう考える。いつだって、満足なんてできない。一人でやってると特に。

 打ち上げの席で、盛り上がっているのに、どこか遠くに魂が浮かんでいるような。そういうのが、自分やな、と思う。どっか冷めている。

 でも、2次会のカラオケでは、ポニョを2回も歌って、踊って。先生達、みんなよかったって言って、踊りを覚えてくれた。それはそれで、とても楽しい。

 でも、こうして、宴のあとは、私はいつも、1人で泣いている。

 ポニョ研究で買った詩集。覚和歌子さんの『海のような大人になる』を開けば、今まで、感じなかった詩が、琴線を震わせる。

 自分が一番、育ててもらい、自分が一番、考え、自分が一番色んな本や音楽や詩に出会い、自分が一番、踊ることを楽しんだように思う。

 そう考えると、やっぱり、ダンス作品を子ども達が、創作するというのは、すごく、教育的だと思う。

 私は、とにかく、自分が1番学びたいのだ。だから、運動会の表現の指導も、3年間やった。他の人がやるのにまかせることは、絶対にできない。これからもずっと。表現に関しては、自分が1番譲れない部分なんだと思う。それについて、私は、もっともっと学んでいきたい。

 そうなんだ。毎年、悔しくて、もどかしくて。でも、それは、やっぱり、自分の中で、真剣に取り組んでいるからだと思う。

 狂おしいほどに愛しいんです。

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 本当に、美しい秋晴れ。信じられないような雲の様子を、ある子が教えてくれた。

 さあ、次は、日本舞踊公演!そして、フェスティバル!

 この2つは、やることは、クリアーだ。一気に波にのるぞ!学級も、実りの秋になるように、作戦をたてねば・・・。

 思索の秋です。最も、好きな季節な〜のだ!