名付けること、名付けることを助けるもの

映画を観て、本を読んで、音楽を聴いて、ご飯を食べて、また本を読んで、散歩をして…

そればっかり。いつも通りのお正月が過ぎていく。

実家に帰ると、昔買った本やCDやら書き溜めたノートを、その時々の心が手に取らせる。
「物を手に取ることが、既に表現なのだ」、とはよく言ったものだ…誰の言葉だっけ。

今回は、思いがけず15、16の時の私と再会することになった。

中学3年の秋、新聞で黒澤明さんが亡くなったことを知った。
玄関先で、座り込んで新聞を読んだ。
不思議に涙が出た。
その時は、黒澤さんのことなんか、ほとんど知らなかったのに。
なぜだか、とてつもなくその人の映画に惹かれた。

その頃の私は、当時想いを寄せていた人が映画好きだったこともあり、色んな映画、特に名画と言われるものをたくさん観ていた(失恋した後も、映画好きな部分はそのまま残った)。

深夜にやっているチャップリンの映画、大好きだったオードリー・ヘップバーンスピルバーグ作品、ジーン・セバーグの出て来る映画、岩井俊二作品、黒澤作品…レンタルショップで借りてきたり、ビデオテープに録画したりしては、家族が寝静まってから観た。時々居間をのぞくに弟は、古い映画を深夜まで観ているヘンテコな姉には付き合いきれない、とあきれられたな。

黒澤作品で強烈に印象に残っているのは、『夢』。あと『生きる』も好きだった。

黒澤映画で使われた音楽を知ることもおもしろくて、本を買って夢中で読んだ。

黒沢明 音と映像

黒沢明 音と映像


ああ、この映画のこの場面で使われたこの音楽には、こんな逸話があったのか…。
ただおもしろかった。映画を観て、本を読んで、本を読んで、音楽を聴いて。全部つながっていった。
1年に何回かしか行けない大阪に行った時には、本に出て来たCDを買った。

『夢』、ゴッホの絵画のバックで流れる「雨だれ」の美しさと汽笛の音が強烈に印象に残った。
「酋長の行列」は好きすぎて、吹奏楽で演奏したんだっけ。

八月の狂詩曲』に使われた「スターバト・マーテル」。
ペルコレージ作曲のものが、「悲しいまでに、美しく、宗教曲の傑作として、つとに有名だ。」(西村,1998)と書かれていて、いてもたってもいられなくなり、CDを買い求めた。

悲しみとは、美しさとは、どんなものだろう。
感動するって、どういうことだろう。
すごく、そんなことが知りたくてたまらなかったのだ。その頃の私は。
自分の心で確かめたかった。誰かの言う「すばらしさ」は、私の心でも「すばらしい」と感じられるのだろうか。


時にそれは答え合わせのような作業だったと思う。
名画を観たのも、傑作と言われる作品を求めたのも、
私も、そう感じられるのだろうか、という期待があったからだ。
そして、誰かの言葉と自分の感じたことが違う時は、心底がっかりした。
私は、何も感じられない人間なんじゃないだろうか。
その不安をかき消すために、手当たり次第に芸術に触れようとしていたあの頃。

でも、そうして、自分の言葉や感情を探し、自分にしかつけられない名前をつけないといけなかったのだと思う。


世界を自分で名付ける、自分で語る、自分で形にする。
そうしてしか、自分の感情を大切にすることはできない、のかもしれない。


過去を振返りながら、それでも、これは現在を生きる私の課題でもあると思う。


アート作品との間に生まれる対話は、いつだって、教育のこととも、生活のこととも、切り離せず結びついている。


もう一つ…同時期に出会って大きく影響を受けた人に寺山修司がいる。


それは、また今度書こう。

ペルゴレージ : スターバト・マーテル

ペルゴレージ : スターバト・マーテル



雪がだいぶんと解けて来た。
家の2階から眺める雪景色。
夕暮れにうっすらと染まって行く。

自分の感情とどう付き合うか。
教師としての私も、一人の人としての私も、15歳の私も、ずっと同じところをぐるぐる彷徨っている。
きっと、今年もそうやって彷徨い続ける。