【授業研究のあり方 試論】2017/01/20

 2017年1月19日(木)に実施した5年国語科『わらぐつの中の神様』(杉みき子・作)の事前研後に記したものです。

授業研究のあり方 試論  2017/01/20 @新横浜への新幹線にて

・授業検討会は、反省会にしてはならない。 授業者が何を願い、その願いを実現するためにどんな仕掛けをし、手立てを打ったかを、授業者の気持ちに寄り添いなが ら行うこと。
授業者がその目で何を見て、見たものをどのように感じたり、解釈したりしていたかを丁寧に拾い上げ、 また、それぞれの目にうつったものをかさねながら、その場で起こっていたことの意味を生成すること。 自分自身の「授業はこうあるべき」「教材はこう読むべき」という落としどころやゴールに強引に引き寄せながら、 「いい」「悪い」を言う場ではない。
自分のものさしで測らない。
意味を生成、探究する場であること。

・研究授業は未完成であること。 実験的であり、自分自身がやったことのない、この世に存在しない未知のものであること。 そして、授業者、こどもは、その未知のものに挑むパートナーであり、最大限リスペクトする存在であること。 キング牧師の授業の時も、今回のわらぐつもそうだった。
自分たちの未知に挑戦すること。
どこかにある正解をなぞったり、賢い答えを言ったりする場ではない。 自分の人生を豊かにすること、未知のものをともに探求する過程こそが、授業づくりであり、クラスづくりであること。

・物語を読む、ということは自分を読むことであり、可能性は無限である。 こどもらしいやわらかい読みが出てくること、
その子なりの感性で読み、味わうこと、
人物に合わせて自分が語られること、投影されること、 そして、その読みのプロセスで、自分自身も変容したり、考えが深まったりしていくこと、 人物の思いを追体験していくことに、物語の本質があること。 教科書でおさえたい項目や、大人の押し付けたい価値観よりも、こどもは、自由に物語を楽しむ。 そのやわらかい読みを引き出す仕掛けこそ、私がねらいとするものであった。
わらぐつを履いて行きますか?という問いに対し、 「金具にはまらないから、おじいちゃんおばあちゃんにわらぐつの作り方を教わって、自分で合うようにつくったものを はいていく」と答える子。 「雪下駄をはきますか」という問いに、おばあちゃんが大切にしていたものだから、傷つけたくないから、はかない、と いう子。
大人の想像なんか、するりとこえていくやわらかな読み。 そこには、祖父母を想うやさしい、その子たち自身の感性がにじみでるように感じられる。 私にとっては、それが授業のハイライトだった。
それから、Aくんが、物語にない「へ~」というセリフを自然につぶやいていたこと。 音読で、その人物に入り込んでいると、そんなことが起こるのだと思った。 目をくりくりさせたり、手を打ったり、その後の声の質が変わったり、 そういうこどもたちの柔軟な変化、なりきっていく中でいきいきと動いていく心と体、 それを感じることが、授業者としてこの授業をおこなった側の喜びだった。
最後のまとめって、いるんだろうか。
みんなで確認していくことっているんだろうか。
「おさえ」ていくことって、いるんだろうか。
そういう授業のアタリマエを問い直し、 今回の授業の意味を、その意味の萌芽を見出し、育てていくことこそが、授業研究ではないのか。
私が、見ていた景色と、まるで違う景色をみる人。 腕組みしながら、ひそひそ話しながら授業を見て、それで、その見ている人の心に変容は生まれるの か。

私は、こどもの読みの前に、ただただ立ち尽くし、ひれふし、圧倒され、無力感を感じた。 こどもに感動できる授業、私の目指す授業は、そういうものかもしれない。 こどもたちのやわらかい読みに涙し、教えてもらうことがたくさんある授業。
そうそう、いつだったか、ショーン・キンリーが言っていた。 いい授業は、先生も生徒も学ぶことがあるんだって。

私たち教師は、こどもの前で偉そうに立つ人じゃない。
答えを知っている人じゃない。 それぞれの人間の素晴らしさを見つけ、その子らしさを見つけ、それを喜んだり、祝福しあったりするような存在じゃな いのか。
神様は、そういうところに、奇跡のようにあらわれるんじゃないだろうか。
私は、3組のこどもたちの姿に感動したし、3人のマサエのホット・シーティングの姿で、もう十分だ、なんて思ってし まった。
授業者としては未熟かもしれないが、それが、私の授業で目指す姿だったのだ。 いや、目にしたことのなにものを見せてもらった。こどもたちに。 私が思い描くもの以上の読み手の景色を見せてもらった。物語の景色を見せてもらった。 マサエが祖父母といっしょにわらぐつをつくるあたたかな風景が浮かんできた。 これは、私が一人で物語を読んでいては、決して思い描くことのできない景色だった。 そこに、私の目指す価値があった。

昨日は、つらかった。授業観を共有できず、協働的に教師が育ちあい、ともにつくりあげる授業研究を全くつくってこれなかった、 研究主任としての私自身の至らなさが悔しく、孤独で、悲しかった。
あの時、こどもたちの姿に感動したのは、私ひとりだったのかと想うと、本当に悲しかった。
みんな、黒板に書かれた意見ばかり見ていたのか。
スムーズなやりとりのできなさばかり?
どうして、こどもたちの心の動きやすばらしさに目を向けられないのか。

私は、泣けてよかった。
本番の授業では、私が大事にしたいものを大事にしよう。 私の授業は、こぢんまりとした、きれいにまとまった、指導書のような授業をすることじゃない。 糸井先生も、小さくまとまるなんてつまらないって言ってたでしょう。 オープンエンド、とかっていう言葉でまとめちゃだめだ。

あの子たちは、作品をこえたんだ。 自分をこえたんだ。 作品と自分が出会うことで、新しい世界を見たんだ。 涙が止まらない。
自分を追い越していく。 それが、ホット・シーティングであり、演劇なんだ。 言葉でうまく説明できなくてもいい。
本番の授業でも、そんなことが伝えられたらいいな。 私が、こどもの読みに感動している姿を、伝えられるといいな。 そういう授業の意味を、みんなで考えていけるといい。 研究授業での質問も、授業者の願いや、こどもに体験させたかったこと、 あの場の意味を、想像していくような対話でありたい。 正解に照らし合わせる場なんかじゃなく。