卯月


国語加配の仕事も3年目。
一昨年より去年、去年より今年、どんどん授業がうまくいかないように感じる。
毎日、反省すること多し。
うまくいかない原因はなんなのか。
うまくいかないと感じている私の考え方に問題があるのか。
うまくいかないことで同僚と会話がうまれることに意味があるのか。
問われ続ける日々。


4年生は『白いぼうし』。
役割を決めて動作化しながら音読をした後、問いづくりのレッスン。
色々問いを出し、ポイントを確認する。
その後、担任の先生に松井さんになってもらい、1場面のホット・シーティング。
子どもたちは記者になってインタビュー。その後、インタビューを通して感じた松井さんの人柄を話し合う。
授業後、今年来られたばかりの先生が、「なんとなくわかってきました。」と言ってくださる。

6年生は『カレーライス』。
「ぼく」への質問はおもしろいものが出るが、ココロ会議は、思ったようにいかない。
「ぼく」は共感できすぎるから、あえて、「なってみる」を使わずに読む方がいいのかな…。
「もっとなりきって語ってほしいよね。」と同僚。
うーん、どこに突破口があるかな。
去年は、お父さんにだけ、ホット・シーティングしたんだよね。
さて、どうしたものか。

5年生は物語単元は終了。
明日から『新聞を読もう』。朝日小学生新聞に早稲田大の「じゃんけんにキューを加えて・・・」という小論文の問題についての記事がのっていたので、その記事を取り上げて導入をすることにする。

初夏の匂いがする。
沈みそうになっても、決して沈みこまない季節の匂い。


私は、新学期が多分、わりと好きだった。
新しい教科書も好きだったし、文学を読むのも好きだった。
4月に勉強した文学作品、わりと覚えているもの。
あ、18時でも随分明るいなって思う時、いつも4月の終わりの連休に、弟と庭でキャッチボールをしていたことを思い出す。
いつまでも、外で遊べる季節が好きだった。


ああ、のんびりいこう。まだ始まって2週間だよ・・・。あせらない、あせらない。
中庭に花水木が咲いていて、そんな話もしてないもんね。

慣れる

今日から学校。

6年生の担任の先生たちと、研究授業に向けての話をざっくりと。
「試行錯誤のトンネル」を、他の授業でどんなふうに取り入れていくか。
言語活動や手法が、彼らの「思考の道具」になるためには、慣れがいる。

今日は、B7からEmのコードが、ちょっとスムーズに抑えられるようになって、嬉しかった。
そう、慣れないと、自由に操れないし、思考がストップしてしまう。
思考の道具にするためには、慣れも必要。
つまり、使うということ。遊ぶということ。

演劇的手法が、彼らの学びの方法の引き出しに入って、自由に取り出せて、使えるといいな、と思う。

なんで、いいと思うんだろう。

自分を超えられるから。
想定外の自分にアクセスできるから。
それから、なんだろう。

気持ちの浮き沈みは、相変わらずで、
それでも、ちょっとだけ、立ち直りが早くなった気がする。
メトロノームふりきれたり、また戻ったり。
鍋で白米炊きながら、自分の心をそっくり誰かにあげてもいい、と思う。


 

やさしい声が好き。

Listen to the music

年賀状を印刷し、返事を書く。

同僚と子どもには、名前でつくった短いアクロスティク詩をそえる。

夕方、近くの郵便局に出しに行く途中、団地のゴミ捨て場の前を通る。

どのゴミステーションも、ビニール袋があふれ、そこにカラスが群がり。。。

私のゴミ袋も、その奥深くに一つ入っている。

息苦しい気持ち。

いつでも24時間営業のコンビニも。

お正月にゴミを出さないキャンペーンを、来年は一人でやろうと心に決める。

ウクレレエレカシを弾いて、スピッツを弾いて、ブルハを弾いて、ハイロウズを弾いて、
イルカを弾いて、森田童子を弾いて、中島みゆきを弾いて、「なみだくんさよなら」と「別れても好きな人」を弾いて。
弾いてると時間を忘れる。

コード進行をなめらかにするのが難しい。
ピアノでいうところの指使い。
ドラムで言うところのスティックさばきか。
ダンスの時も、ステップとターンは苦労した。
意識しなくてもできるまで、体で覚えるしかない。
練習あるのみ、かな。


一日中エレカシを聴いて、アンケート集計をして、ご飯をつくって、笑の内閣の「君の名は」の方を見て、そして、大切な友人と話す。


明日は出勤。




再会

先日の紅白でエレカシを久々に聴いて、しびれる。

中学、高校の時、よく聴いてた。
でも、今の方が心にずっしりくるよ。

思いがけず、めちゃくちゃ勇気づけられる。
ああ、このタイミングで出会い直せてうれしい。

今日は丹後から幼馴染と帰省。
石清水八幡宮に初詣も。
すごくいい月が見えました。
満月。
今宵の月のように、だね。
宮本さんの歌と月に力もらって、不思議に元気が出てきた。
しばらく、エレカシだなあ。
歌もギターもかっこよすぎる。

そういえば、今日引いたおみくじが、昨年引いたものと全く同じだった。
21番。

これもまた再会ね。

ブログも再開。

手のひらの中から

クリスマス・イヴの夜にウクレレを買った。
この夏以降、ずっと弦楽器が欲しい、弦楽器を弾きたいと思っていた。
いくつかきっかけはあるのだけれど、
その一つは、夏のシュタイナー学校の授業の中でギターを弾いたこと。
8年生の心の複雑さに寄り添っていくギターの和音の響きが心に残った。

ギターは私のことだから、きっと挫折する・・・と思ったので、「ウクレレをください。」って。

それから、冬、そして年末年始を乗り越えるために。
私の苦手な年末年始。
何かを手のひらにのせ、私の時間を生み出していきたかった。
ただ、過ぎるのを待つような時間にならないように。

多分、ウクレレは、私の願いに応えてくれた。

和音の移り変わりって、こんなに美しいものだったのだな。
ストロークって、こんなふうに音楽をつくっていくのだな。
自分でコードを弾いてみて、歌の奥深さを知る。


去年は演劇の舞台に立った。
演劇について学ぶことが、私を助けてくれた。
生きていくことは難しい。
年末年始を越えることも難しい。
そうした時に自分を救うのは、実感を伴う何か、だ。

新年最初の曲。湯川潮音「その日わたしは」
いつか、この曲をギターで弾けるようになるといいな。

https://virginbabylonrecords.bandcamp.com/track/feat-2


「その日 わたしは 音楽の中にいたから」

初夏


昨夜の安楽寺でのタテタカコさんのライブで聴いた「Soleado de la vida」が素晴らしくて。
「哀しみのソレアード」と訳されている曲だが、タテさんは、「人生のひだまり」という題名で、
自分なりの言葉に訳し、歌っているという。

音楽っていうのは、その人の心の中に響くものなのだなって。
その時々で、その曲を聴いていても見える景色も湧き上がる感情も異なる。
ここ数年は、彼女のライブで泣くことが多かったが、昨日は、もっと違う景色を見ている私がいた。
その自分を冷静に受け止める。
自分の心の声を聴くように、歌声を聴いている。
そして、歌声を聴きながらメロウさんが即興で描くペインティングの中の人々にも、私を見つけ、重ねながら。


今日は、本当に生産性とはかけ離れた何もできない1日だった。
ただ、音楽を聴いていた。
この曲、覚和歌子さんの作詞なんだなあ。
今年は、彼女の詩に縁がある。
覚さんの話、聞きに行きたい。

6月はシャンソンが似合う。
マダム・ジーナの歌う「さくらんぼの実る頃」も、初夏のイメージ。


昨夜、やっとクチナシの咲いた小道を通った。
クチナシの甘い香り。
初夏。
夏の記憶が、順々に蘇っていく。
高校生の頃の帰り道、
小学生の頃の食事の風景、
生まれる前の記憶まで。

問いをつくる

『人生には、答えは無数にある しかし 質問はたった一度しかできない』寺山修司


この言葉、どういう意味だろうって。
あ、なんとなくわかるって。
大学生の頃、友人と話した記憶。


今年度の研究テーマのkeyは、「問いをつくる力を育てる」ということ。
演劇的手法の一つである「ホット・シーティング」も、問いを引き出す学習装置として機能する。
新聞記事から意見文を書く学習では、同じ新聞から、一人ひとりの関心に合わせて各自が「問いかけ(話題提起)」をする。
そして、その答えに当たるところを要約し、最後に自分の意見を書くという3段落構成。

そう。
生きていく中で、問いは自分でつくらないといけないんだ。
そして、問いに答えるのもまた、自分自身なのだ。


毎日、いくつもの問いが、私の頭の中をめぐる。
簡単には答えられない問いや、誰かに尋ねてみたい問いがある。
決して知ることなどできないだろう問いもあるし、
問うことが怖くて、答えがわかったふりをしていることだってある。


今週は、『一つの花』(今西祐行・作)の研究授業。
週末は、平和を歌った歌、反戦歌を聴き続けた。
この世界の片隅に』を観に行ったことを思い出したり。


「かわいい絵をちりばめた 飛行機が夢をのせて 大空を羽ばたく この時代に 僕は何をしよう…。」
『この時代に』(作詞・作曲 中山 真理)


この最後の問いは、私自身の問いでもあり、それに答える生き方をしないといけないな、と思っている。
そして、学習者である子どもたちとも、その問いを共有したいと思っている。


たった一度の質問。
たった一度の人生。